CITRON.

のん気で内気で移り気で。

ビー玉。

誰かに何かを話したり、こういう文章を書いたりしていて最近よく思うのは、結局、自分の言いたいこと、のようなものは、総量の半分くらいしか伝わっていないのだろうなあ、いうことだ。
もちろん、技術的に残念な為に伝わらないということも多々あるが、そもそも言葉によるコミュニケーションというものはそういうものなのかもしれない、と思うようになったのである。理屈というよりは、経験則で。

つまり、

「彼のことをよく考えて、彼をよく見て、胸のあたりをめがけて言葉のボールを投げてごらん。きっと、彼のハートのミットの中に、キミの気持ちは届くはずさ」

……というようなことはなく、あくまで僕の感触でしかないのだが、言葉はボール状というより、ビー玉みたいなもののような気がしている。

ビー玉をひとつかみ、相手に向かって投げる。

投げたのはなにせビー玉なので、そのすべてを相手がキャッチできるわけもなく、投げ終わってしまったこちらとしては、どうか一粒でも多く相手の手の中に届きますように、と思うしかない。

大きく振りかぶって剛速球を投げる気持ちの良さというのはたしかにあると思うのだが、僕の中では言葉はビー玉ということになってしまったので、そういう投げ方はこわくてちょっとできそうもない。
ビー玉が指先を離れる瞬間まで神経を使い、ゆっくりめに投げるのだ。爪が伸びているとビー玉に引っかかって悪影響が出る、ということであれば、深爪くらいは我慢する。

どこをどんなにがんばっても、すべてのビー玉が届くということはないような気がする。
それでも、相手に届いたビー玉のいくつかが、その手の中で不思議な跳ね方をしたり、もしくは、その手の中で砕けた断面がきらきらときれいだったりしたら、もう最高なんじゃないのかなあ、と思うのだ。