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CITRON.

のん気で内気で移り気で。

トイレでどこまでできるのか問題。

ある日のこと。

会社のトイレが混んでいて、個室を使いたくても空きがない場合、並んだドアの近くで待つことがある。
時間帯によっては、それほど広いわけでもないドア付近のスペースに三人くらいの待ち行列ができたりする。待っている人々は、ぼんやりと虚空を見つめたりぼんやりと手のひらを見つめたりぼんやりとスマートフォンをいじったり、とにかくひまそうに過ごしていることが多いのだが、先日、その待ち行列の中に、缶コーヒーを飲んでいる人を見かけて以来、僕の中でなにかモヤモヤした気持ちが発生し、今に至るのだ。

トイレで缶コーヒーである。

反射的に「それはちょっといかがなものか」と思ってはみたものの、ではなにが「いかがなものか」なのかよくわからなくなってしまったのだ。
これがその辺の公園にある公衆トイレならまだしも、ここは会社のビル内なのである。毎日専門の業者の方がキレイにしてくれるわけで、ここで缶コーヒーを飲んだところで衛生的な問題が生じるとは考えにくい(ひょっとしたら、ろくに掃除もしない自分の席の方がよほど不潔かもしれない)。床も便器も洗面台も、常に一定以上のレベルでキレイな状態であるといっていい。排泄物を扱う場所ではあるが、ドア前待ち行列スペースでそれを意識することはまれだ。

じゃあ、いいじゃないか、トイレで缶コーヒーくらい。ドアの前だし。

という気もしてくるが、今度はじゃあどこまでが「いいじゃないか」なのかが気になってくる。

トイレで缶コーヒーがいいのなら、トイレでおにぎりはどうたろうか。
もちろん、ドアの前だ。

とりあえず僕は、トイレの待ち行列で飲食する気はないのだが、前に並んでいる人がもりもりとおにぎりを食べていて、その人に、

「何で食べないの?」

などと聞かれた場合、とっさに上手く答えられるだろうか。
なんだか自信がないのである。

雨の日の過ごし方(オトナ編)。

ある日のこと。

『雨の日の猫はとことん眠い』という言葉があって、ある意味で僕の座右の銘のようなものになっている。
これはそもそも、大昔に愛読していた本のタイトルなのだが、その言葉自体をものすごく気に入ってしまい、雨が降るたびに思い出してしまうのだ。

雨の日の猫がとことん眠いのであれば、人間だってそうだろうというのが僕の持論である。
猫から跳躍力と俊敏さと愛くるしさと肉球と体毛を奪った状態の生物が人間とほぼ同義といっていい。これは周知の事実というか暗黙の了解というか、今さら言うまでもないことだ。
ということは、猫が眠くなる状況ならば人間だって眠いのではないだろうか。いや、現に、朝から冷たい雨の降る今日、やたらと眠くてしょうがないのだ。

今日がたまたま休日だからよかったものの、これが平日だとけっこうやっかいなことになる。平日の日中は会社で仕事をしないといけないわけだが、そういうこちらの事情などいっさいお構いなしに睡魔はやってくるものだ。
仕事中はできれば眠らずに過ごしたいので、それなりの眠気対策は用意しているのだが、

・筆記用具の先のとがったところで手の甲をちくちくする。
・用もないのに誰かに話しかける。
・やたらとガムをかむ。
・やたらとコーヒーを飲む。
・やたらとトイレに行く(これはコーヒーの副作用ともいえる)。

……どれも効果はそれなりで、それなりということはつまり、眠気のレベルが上がるとあまり効き目がないのである。上記すべて、身体のどこかを動かしたり刺激することによって眠気を退散させようとするものなのだが、あまりにも強烈に眠いときには、このような些細な刺激など意味をなさず、いわゆる「何をしても眠い」という状態になる。つまり、母親からご飯を食べさせてもらいながら寝てしまう赤ん坊と同じ状態になりかねない。
仕事中に居眠りすることはほとんどない(と思っている)僕ですら、まれにパソコンで書類を書いている最中に一瞬の睡魔にやられてしまい、ふと気づくと、
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
……というように、書類の文面が断末魔の叫び声を上げることがあるのだ。

ということで最近では、予防よりも、事故後の被害を最小限にする方法を考えている。そのひとつとして、今年から、出勤する日が雨だった場合、まぶたに黒目を記入することにした。これにより、睡魔にやられて目を閉じてしまったとしても、マジックで書き込まれた黒目のおかげで(ごく短時間ではあるが)周囲の目をあざむくことができるのだ。
その際、気を付けておきたいのは「決して白目を描かないこと」だ。
この作戦は、「人はそれほど他人の顔に注目していない」という心理を巧みに利用したものなのだ。「ちょっと前髪を切ってみた」、「今日からメガネが新しい」というような、本人としてはそれなりの変化が顔面に起きているにもかかわらず、周囲の人間に気づかれなかった、ということはよくある事だろう。見ていないわけではないが、意識的に注目していないものについては頭に残らないことが多いものなのである。
なので、仮にウトウトして目を閉じてしまったとしても、目の中央部分がなんとなく黒ければ意外と違和感は持たれないのだ。こういう場合、目を閉じてしまうのはそれほど長い時間ではないことが多い。その間、不信感を抱かせなければ充分に体勢を建て直すチャンスはある。
ごく短時間、カモフラージュできればいいという意味で、白目部分を描くのは不要、というよりむしろ逆効果になるといっていい。簡単に白目といっても、違和感がないような色合いの白を用意するのはかなり困難だろう。リアルさを追求してまぶたを白く塗ったとしても、ウトウトしたときに「不自然に顔に白い部分のある人」が出現するのがオチなのである。不自然というのはつまりは目立つということだから、作戦は大失敗といっていい。
ところで、ここまでの文章は「ウトウトするのは短時間」という前提の上で書かれている。職場での居眠りで熟睡してしまうような人には適合しない作戦だ。言うまでもなく、そういう人には別の作戦が必要、というか、可能であれば眠れる状況を作ったほうがいいと個人的には思う。

この文章を書き始めて、ここまでで6時間が経過している。
ベッドの中でウトウトしている合間に書いているので、なかなかはかどらないのである。まあ、はかどらないのはいいとして、寝ぼけて書いていると思われる部分もちょこちょこあるようで、今回はいつにもましてウソ含有率が高いようだ。

こういう日はひたすらうつらうつらと過ごすに限る。
枕元には先日ブック・オフで買ったマンガが三冊と、これを書いているキーボード。
ベッドの中でひたすらウトウトと過ごし、たまに隠してあるビールを飲む。ベッドの中での飲食は我が家では軽犯罪なのだが、長年の試行錯誤の結果、缶ビールを隠すための死角を発見したのである。飲んでいる瞬間さえ見られなければ、バレることはない。
枕の下には、非常食としてミックス・ナッツも隠してある。
だらしなく寝て過ごす為に万全の準備をする。これが大人のふるまいというものなのだ。

ミド戦記:ダンジョン攻略は突然に。

ミド戦記 ある日のこと。

人生には、時々、思いも寄らぬ事件が起きる。
去年まで、いや、昨日まで、いや、極端な場合はつい5分前の自分にはとても予想のつかないことが今、起きたりする。こういう、「人生なにがあるかわからんのう」という状況を、アメリカ映画ではジェット・コースターや、チョコレートの箱に例えたりする……と書いてからちょっと不安になってきた。厳密に精査するとこの例の出し方はちょっと違うような気がしないでもない。とはいえ、ちょっとした「今、上手いこといった!」感が捨てがたいので、とりあえずこのままにしておくことにする。要は、生きているといろいろある、ということがいいたかったのだ。

この度、本業のサラリーマン活動の合間に、(ごく短期ではあるが)副業を行うことになった。
これこそまさに、先月の自分にはとても想像できなかったことだ。今回、ちょっとした縁があって、このようなことになった。その「ちょっとした縁」がどのようにもたらされたのか、いまひとつしっかり思い出せないのだが、まあ、些細なことだ。人生には勢いというものが必要な時がある。

今回、僕が従事することになった副業は、冒険者だ。
モンスターがうようよとうごめく、とあるダンジョンを攻略することになった。僕にとっては久々の冒険者活動である。
この状況を、ものすごく端的に簡潔に説明すると「ダンジョン攻略もののゲームソフトを借りて、空いた時間に遊ぶことにした」ということになる。まあ、それだけといえばそれだけの話なのだが、それをわざわざ「副業」というにはそれなりの理由がある。

本気度が違うのだ。

今回、副業として行うミッションには期限とノルマがあり、そのノルマの難易度は(僕にとっては)かなり高い。本気で取り組まなければとてもじゃないがこなせない案件なのである。

さて。
この物語は、先月、我が家の自宅内ダンジョン(おそろしく片づいていない部屋ともいう)からゲームボーイが発掘されたところからはじまる。
ゲームボーイとは、その昔、任天堂から発売されていた携帯型のゲーム機のことだ。専用のソフトをセットしてゲームをするという意味では、ニンテンドー3DSや、最近発売されたNintendo Switchの先祖にあたるといっていい。しかしそれにしても、ニンテンドーだのNintendoだの、カタカナだったりアルファベットだったり、表記が統一されていないのはどういうわけなのだろう(ここに書いた名称は任天堂のサイトから転記したものだ)。公式サイト上の表記が統一されていないということは、あえて書き分けているということなのだろうが、その意図がよくわからない。

話がそれた(とはいえいつものことだ)。
兄弟の形見でもあるゲームボーイとの久々の対面を喜んでいた矢先、なんやかんやあって「おすすめのソフトがあるので、再会の記念にプレイしてみてはどうだろうか」という話が舞い込み、そこでまたなんやかんやあって、今に至るのである。
しかし、加齢による記憶力の低下と日々向き合っている身にとって「なんやかんや」というのは実に便利な言葉だ。今まであまり使ったことがなかったのだが、これからは積極的に使っていこう……というこの一文がすでにあやしい。「今まであまり使ったことがなかった」のかどうか、実はあまり自信はないのだ。

今回、(なんやかんやあって)お借りしたソフトは2本。ともに1991年製である。なんと今から26年も前のものだ。ということはつまり、今、現場で一緒に仕事をしている新入社員よりも年上のソフトということになる。発掘されたゲームボーイもそうだが、そんな大昔のものがいまだに遊べるというのは実はけっこうすごいことだ。単純に比較できるようなものではないが、今、僕がスマートフォンで遊んでいるゲームは、おそらく26年後には遊ぶことはできないだろう。

さっき形見という書き方をしたのだが、手元にあるゲームボーイは元々は弟のもので、僕自身はこれで遊んだことはほとんどない。せっかく往年の名機が動く状態でここにあるのだから、ちょっと試しに遊んでみたいと思うことがあっても、肝心のソフトについてあまりよく知らないのだ。
インターネットを使って調べてもいいのだが、ネットの情報が僕にジャストフィットするとも限らない。僕はゲームがわりと好きなほうだと思うのだが、腕前がからっきしなのである。学生の頃、僕がゲームをしているところを見ていた友人に「お前はアレだな。反射神経が鈍いというより、ないんだな」みたいなことを言われて妙に感心されたことがある。神経の性能云々以前にその存在を否定されたわけだ。おそらく、「よくぞ今まで生きてきた。神経ないのに」という意味で感心されたのだと思うのだが、ところがどっこいというべきか、その後数十年、なんとか生きている。神経とは、なければないでけっこう生きていけるものらしい。そういえば、世の中には「無神経な人」というような言い回しもある。意外とそういう人は世の中に多いのかもしれない。
まあそれはそれとして、ネットで評判のいい名作が、僕にはまったく歯が立たないということはおおいにありうるのだ。

そういったわけで、おすすめのソフトを教えてくれた上に、それを貸してくれるという人がいたのは大変ありがたいことであった。なにせタダなのである。そのソフトが僕にとってハードルが高すぎて遊べなかったとしても、金銭的には損をすることはない(まあ、それなりにヘコむような気はするが)。
余談になるが、僕の見解では、タダでものを貸してくれる人はかなり高い確率でいい人だ。じゃあ、タダでものをくれる人もいい人なのかというと、必ずしもそうでもないような気がする。これはあくまで個人的な見解で、うまく根拠は説明できないのだが。

しかし、僕にソフトを買してくれた人(いちいちこう書くのも面倒なので、今後はマスターと表記することにする)は、おすすめソフトをただ貸してくれたわけではなかったのだ(これについては、また別の機会に書くことにしたい)。

ということで。
今、僕の通勤カバンには、紫色のゲームボーイが忍ばせてあるのだ。

西暦2017年。
いかにもサラリーマン風の男が持つ、いかにもサラリーマンが持ちそうなカバンの中には、ゲームボーイとそのソフト、あとは予備の乾電池。
「ふふふ、まさかオレ様のカバンにゲームボーイが入っているとは思うまい」
……この妙なワクワク感はなんだろう。
「おっと、オレ様の後ろに立つときは注意しな。カバンの中のゲームボーイが火を噴くぜ」
ゲームボーイに乗ったらしっかりつかまりな。飛ばしていくよ」
……そんなような気分なのだ。
真顔で「どんな気分なんだよ」と問われると大変困るのだが。

四半世紀前のゲームソフトと、それを遊ぶためのゲーム機が、通勤カバンの中に入っている。ゲームソフトは、少し前の自分にはちょっと思いつかないところから出現したものだ。
おおげさにいえば、ゲームボーイたちを通勤カバンに入れたその時から、僕の生活はこれまでとはほんの少しずれた世界に突入したのである。生活の中の些細な変化が、予想以上に鮮やかなワンポイントとして世界に色を足したのだ。
この状況が、ちょっと面白くてたまらない。「ちょっと面白い」と「面白くてたまらない」がごっちゃになった気分なのだ。……書いててアレだが、うまく伝わっているかどうかかなりあやしい気分ではある。もしかすると、微熱が続いているような状態に近いのかもしれない。

この文章のタイトルは『ミド戦記』だ。
いうまでもなく、映画化もされたファンタジー文学の名作、『ゲド戦記』からパク……いや、インスパイアされたものである(しかし僕が『ゲド戦記』を観たり読んだりしたことがあるのかという問題については黙秘権を行使したい)。

今のこの状況を僕が面白がっている間、『ミド戦記』は続く(とはいえ、次回の『ミド戦記』はいつになるのかわからない。冒険の進捗次第だ)。
冒険者として、与えられたクエストをこなし、ダンジョンを攻略するのだ。剣と魔法とモンスター。まさにファンタジー。語感だけで『ゲド戦記』をパクったわけではないのである。

……あっ。パクったって言っちゃった。