CITRON.

のん気で内気で移り気で。

それはなにかとたずねたら。

先日の記事に、「タイトルと中身に関連を持たせないものの作り方をマシマロ技法と呼ぶ」というようなことを書いてみたのだが、もちろんそんな言葉は実際にはない(はずだ)。奥田民生の『マシマロ』という曲は、『マシマロ』というタイトルであるにもかかわらず歌詞の中にマシマロが登場しないし、それを連想させるようなところもないのである。

演奏はいかしてるし歌詞は可愛らしいし、とてもいい曲だと思う。最後に「この歌の内容とマシマロは関係ない」とわざわざ断言するところがいい。

奥田民生といえば、最近知った驚愕の事実なのだが、僕の家族は、僕が「奥田民生になりたいボーイ」だと思っていたらしいのである。
先日、公開中の映画『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール』について、
「観に行かないの? 奥田民生になりたいボーイとしては」
みたいなことを言われたのだ。
たしかに僕は奥田民生ユニコーンも聴くし、ごくたまに井上陽水奥田民生(というユニット名なのである)だって聴くこともある。家族は、僕が奥田民生を聴いているというくらいの意味で「奥田民生になりたいボーイ」という言葉を使っているものと思われるが、「奥田民生になりたいボーイ」とは、もうちょっと違う意味を含んでいるのではないだろうか。

ちなみに映画の公式サイトを見てみると、奥田民生になりたい、というのは、力まないカッコいい大人になりたい、ということを意味するらしい。これはつまり、飄々としていて暑苦しいところがなく、一所懸命という言葉とは無縁そうでいてやることはやっている、というような捉え方をすればいいのだろうか。となると、僕の中では、所ジョージあたりで代用してもそれほど違和感が出ない概念になるのだが、そういう把握でよろしいか?(誰にたずねているのだ)
そこに浮かび上がる人物像はなかなか魅力的だとは思うが、だからといって「なりたい」かと言われて「なりたいなりたい是非なりたい」と即答できるかといえば話は別だ。ちょっと言葉遊びのようないい方になってしまうが、こういうのは「なりたい」と思った時点でなれない類いのもののような気もする。ここらへんはわりと思いつきで書いているので、あくまで「気もする」というくらいの話ではある。

それ以前の問題として、そもそも僕はボーイという年齢ですらないのだが、このへんを妙に忠実に表現して「奥田民生になりたいおじさん」にしてしまうと途端に語感が悲しくなってしまうのはなぜだろう(そんなことを思うのは僕だけかもしれないが)。

「あの人、奥田民生になりたいおじさんらしいよ」

そんなことを言われている人が近くにいたら、ガシッと肩を組んで、
「ま、飲みに行こうか」
などと言ってしまいそうな気がしないでもない。
そんなことを思うのは僕だけかもしれないが。