CITRON.

のん気で内気で移り気で。

裏返しても犬。

目が覚めて、枕元のメガネを手に取ると、ぬくい。
梅雨はまだ明けていないようだけど、少なくとももう立派に夏だ。

暑い夏の朝、温まっているのがわかっていてそのメガネをかける。朝イチからそこそこの試練だ。黒いプラスチック・フレームがじんわりと額やこめかみのあたりを温め、温熱効果で血行を促進、眼精疲労の軽減にとても役立つ……かもしれない。いや、どうせなら役に立ってほしい。

さすがにこう暑くなると、通勤時のヘッドフォン使用もあきらめることになる。お気に入りのヘッドフォンは、耳に当たるクッション部分が、行列ができるお店の銅板厚焼きパンケーキくらい厚いのだ。こんなものを装着して炎天下を歩いたら、そのうち耳が飲茶のように蒸しあがってしまいそうだ。そういえば、耳の形は少し餃子に似ている。

リビングの床に犬が落ちている。
不思議なもので、暑い日に眠っている犬は、すやすやと「寝ている」というよりぽとりと「落ちている」ように見える。体という器から、何か、たとえば「たましい」みたいなものが、(少し)抜けていってしまっているように見えるのだ。これは100パーセント気のせいだと思うのだが、何かが抜けた分、体も少し薄くなっているような気がする。
今はもう見慣れたからあわてることはなくなったが、はじめてこれを見たときはそれはそれは驚いたものだ。あわてて体をゆすって起こしてしまって、その後の「お前のせいで起きちゃったのだから、お詫びにおやつくだたい」アピールの対応がとても大変だった。その頃は彼女もまだやんちゃ盛りの女の子で、はがしてもはがしても僕の顔面に飛びかかってきたものだ。

それにしても、目覚めた犬の元気の良さが大変うらやましい。
起きて数秒後には元気も全開なら食欲も全開なのだ。彼女が人間だったなら、朝からカツ丼くらいもりもりと食べられるような女の子になるのだろう。
数日前の朝、会社の最寄り駅で試供品のアイスをもらい、ニコニコと食べながら通勤したら仕事中にお腹が痛くなったのだが、彼女はそんなヤワな胃腸など持ってはいないのである。
アイスの件については、そもそも胃腸が弱い上にその日の最初の食事だったというのがよくなかったのだろう。だがしかし、アイスは美味かった。赤城乳業に罪はない。

こぐま座のようなポーズで床に落ちている犬の、前足を左手、後足を右手でかるくつかむ。そのまま背中を軸にするような感じで、くるりと裏返してみる。特に意味はない。強いていえば嫌がらせだ。こちらはこれから、暑いのがわかっていて外に出るというのにキミは寝ていられるなんて、という、犬も食わない類の負け惜しみだ。
裏返しても犬は起きなかった。
その眠りの深さというか真剣さもなんとなくうらやましい。最近、睡眠時間はそれなりに確保できているはずなのだが、日中にやたらと眠くなる時間帯があるのだ。理由に心当たりはないが、睡眠が浅いのかもしれない。

「お前には勝てないなあ」

とかなんとか呟きながら犬を軽くなでる。

そろそろ出発しなければ。
サラリーマンとしての一日は、まだはじまってもいない。