CITRON.

のん気で内気で移り気で。

さよなら死神。

自宅から最寄り駅まで歩くコースに、200メートルほどのまっすぐな路地がある。
……「200メートルほどの」などとスッと書いてみたが、実は事前にグーグル・マップで調べてあるので距離はわりと正確だ。自慢じゃないが僕は自分の距離感というものにまったく自信がない。たとえば、誰かに道を尋ねられたりしても、「そこを曲がって100メートルくらい歩くと着きますよ」というような説明ができないのだ。
なので、僕が道案内をする時は、どうしても「ちょっと歩くと」とか「汗ばむくらいに歩くと」とか「あれ、こんなに歩いても着かないなんて、ひょっとしたら道に迷っちゃったかな、と不安になるくらい歩くと」という説明になってしまう。そんなクオリティでは説明された方も困るだろうなあとは思うが、できないものはしょうがない。「真面目に取り組んでいるにもかかわらず結果が残念」という、一番タチが悪いパターンだ。

話がそれた(とはいえいつもの事ではある)。
ここ数ヶ月、この路地で通勤時にやっているささやかなゲームがある。ゲームというより、運試しだ。
ルールは簡単で、その200メートルの直線を、誰にも会わずに歩ききれたら勝ち、というものだ。もちろん勝ったからといって何かいいことがあるわけではない。「お、ラッキー」と思うくらいのものだ。村上春樹がいうところの「小確幸」というやつだ。
僕がこの通りを歩くのは6時を少し過ぎたくらいなのだが、幼稚園と高校が隣接する住宅街の路地ということもあり、この時間帯に歩いている人はまだあまりいない。この、「あまりいない」具合がなかなかいい塩梅で、勝率はあまり高くないのだが、まったく勝てないわけでもない。負けても「明日は勝てるかも」と思える程度の勝率なのである。こういうのを、ゲームバランスがいい、というのかもしれない。
ゲームとして勝敗を楽しんでいる以上、前方から歩いてくる人や後方から抜き去っていく自転車などは全部「敵」ということになる。見ず知らずの一般市民を「敵」呼ばわりするのも失礼な話だが、まあ、僕の心の中だけの話だ。ただ、あと数メートルで勝ち、という状況で「敵」が現れたりすると、思わずキッとにらんでしまいそうにはなる。もちろん、実際にはにらんではいないはずだ(希望的観測)。

「敵」を見かけたら負け、というシンプルなルールなので、「敵」に関して「大ボス」、「中ボス」、「ザコ」というようなランク付けはない。ただ、例外的に特別扱いしていたコンビはいた。
それは大きな犬と飼い主のセットで、おそらく飼い主は付近に住む善良な一般市民だと思われるのだが、そのビジュアルがやや異様だったのだ。
まず飼い主の男性だが、上下黒のスポーツ・ウェアに、同じく黒の目出し帽をかぶっている。目出し帽というのは、頭から顔全体を覆うニット帽で、目の部分だけ開いているものだ。そういう帽子(もはやこれを帽子といっていいのだろうかという気がしないではない)があるのを知ってはいたが、実際に着用されている状態で見たのは彼が初めてだったし、彼以外で見たことがあるのは映画に出てくる銀行強盗だけだ。
確かに、寒いのはわかる。
しかし、そういうスタイルの人間が、まだ薄暗い時間帯に大型犬を連れて曲がり角から現れると、正直かなりこわい。大変失礼な話だが、悪い人にしか見えない。
まして、その犬も見事なくらい真っ黒なのだ。その黒さはもう、川原泉のマンガに出てくるダミアンという犬と同じくらい、つまり黒ベタ一色なのである。僕の視力があまりよくないのも原因だとは思うが、あまりに黒が濃すぎて、黒い犬がいる、というよりは、景色に犬型の穴が開いているように見えるくらいだ。そのたたずまいはどこか現実離れしていて、「これは異界より召喚されし魔犬」などといわれたら納得してしまいそうな雰囲気がある。

まだ薄暗く、人も歩いていないまっすぐな路地の最後あたり、交差する細い道から突然このコンビが現れるのである。確率は2割から3割くらいだろうか。この遭遇率の低さも相まって、初めて出会ってからしばらくは、見るたびに「うわっ」とか「ひっ」とか言っていたような気がする(たぶん小声で)。
僕はひそかに、このコンビを「死神」と呼んでいたのだが、ここ最近、日が昇るのがはやくなるにつれて遭遇率が低くなっていき、2月の下旬あたりからまったく見ることがなくなってしまった。
あれだけ怖がっていたのに、見れないとなると見たくなるというのもワガママな話だが、朝のゲームはすっかり物足りなくなってしまったのだ。