CITRON.

のん気で内気で移り気で。

名前をつけてやる。

村上春樹待望の新作長編が発売される……という出版界の大ニュースとはまったく関係なく、まったく関係のない作家のエッセイ集を読んでいる。「日本語で書かれています」という以外に共通項のなさそうな本で、たいそうくだらなく面白い。まあ、村上春樹のエッセイにもたいそうくだらなく面白いものはあるから、「まったく関係ない」とまでいわなくてもいいのかもしれない。いや、そんなことはどうでもいいのだ。今書きたいことは、『騎士団長殺し』は文庫になったら読みます、ということだ(誰に宣言しているんだ)。

で、たいそうくだらなく面白いその本に、ペンネームについての文章が載っていて、それを読んだらなんだか久しぶりにいろんなことを思い出してしまったのである。
作者は、かつてペンネームを付けるときに、「カッコよく、スカした感じ」になるのがイヤで、なるべくそうならないように言葉を選んだらひどく個性的な名字になってしまったという内容なのだが、その気持ちは実によくわかる。
人間誰しも、ペンネームの一つやは二つは持っているものだが、そのネーミングにあたっては様々な思いを込めるものである。子供やペットに名前を付けるのとは違い、既に名前を持っている自分に、改めて名前を付けるのだ(それも自分で)。そこには、良くも悪くも自分に対する気持ちのようなものが投影されているはずだ。ゲーセンでハイスコアを出したときに登録する「AAA」とは訳が違う。

自分に対する気持ちが一番こじれていたと思われる中学生時代、僕が使っていたペンネームは、「読み方は本名と同じだけど、漢字が違う」というものだった。具体的にいうと、名字に使われている「川」を、「河」に替えていたのだ。
ペンネームというものに憧れはあるものの、目立つ名前にして「あいつ、カッコつけてやがる」とか思われるのもイヤなので、精一杯考えた結果、落とし所としてそう命名したのだろう。
「発音は同じだけど漢字が違う」というちょっとした差違に、大人っぽさのようなものを感じていたような気もする。「小粋な感じがする」というか「ひねりが効いているような気がする」というか、漢字を一文字替えたくらいの工夫で、「あからさまにペンネームっぽいのは、ちょっと、ね(ふっ)」という大人気分を味わっていたのである。
僕の机の引き出しにタイムマシン搭乗口があれば、すぐさま中学生時代に戻り、当時の自分に何かひとこと言ってやりたい気もする。「自分で思ってるほどイケてねえぞ」とか。

その上、「河」の字を書くときに、独自に開発した崩し字で書いたりしていた。やや殴り書き気味に部首の「さんずい」を書き、その右側の「可」を渦巻きのように書いていたのである。もう少し細かくいうと、左上方を始点にして右回りに円弧を描き、左下あたりから円の内側に入り、渦巻きにする。巻き具合はだいたい一周半くらいだろうか。これをなるべく素早く、ちゃちゃっと書く。この渦巻きを、一筆書きというか、筆記体風に書いた「可」に見立てていたのだ。
何気なくぞんざいにサラサラと書く、という行為に、ちょっとしたプロ風味を味わっていたのである。夜中にこっそりと、ノートの片隅あたりに考案したペンネームを書く(そこには、へんちくりんな形の「河」の字も当然含まれている)。それを見て、「お、いいぞいいぞ」なんて思っていたのである。なんて馬鹿なんでしょう。

僕の机の引き出しにタイムマシン搭乗口があれば、すぐさま中学生時代に戻り、その手に握っているシャープペンシルを取り上げたいところだ。
中学生のやることにそこまで厳しく言わなくても……と思う方もおられると思うが、このペンネームはその後数年間使われ続け、二十歳になる直前のある日、突然親にバレることになる。
それだけでもうお腹いっぱいになるくらい恥ずかしいのに、その上、コタツの上に置かれたノートに書かれたペンネームを指さされ、「これ、何?」と、ど直球の質問をされるのだ。

ここはやはり、積極的にシャープペンシルを奪い取っておきたいところだ。

しがないサラリーマンが中学生時代に使っていたペンネームの話など、誰も興味はないと思うが、書いてる当人の手のひらは汗でじっとりと湿っている。なんだかもう、ものすごい恥をさらした気分だ。
書かれたもののインパクトと、書いた側の受けたダメージを比較すると、あまりコスト・パフォーマンスの良くない文章なのかもしれない。
ああ恥ずかしい。