CITRON.

のん気で内気で移り気で。

お祈りならば惜しみなく。

「もっと」

彼女は一言そう言った後、少し間を間を空けた。頭に思いついたことをそのまま言うべきかどうか、迷っていたのかもしれない。
数秒後、彼女は言うべきことは言おうと決めたらしく、パソコンの画面を見ながらこう言った。なんというかまあ、明らかに不本意そうである。

「もっと、いい数字が出ていてもよかったんですけどね」

反射的に、どうもすみません、などと言いそうになるが、薬が上手く効いていない件について、僕にあやまれるところはないのである。説明書で指定された量を、指定された回数、指定されたタイミングで点眼しているだけで、タバコは吸わないほうがいい、という以外、特に何かを節制する必要もない。そもそも僕はタバコを吸わないし、点眼は地道に続けているし、これといった落ち度はないのだ。

僕の目玉は相変わらず赤点ギリギリという状況で、これといって事態を好転させる作戦はないらしい。彼女(主治医、ちょっと美人)は、「以前、使っていた目薬に戻したら、今回は効くということもあるかも」というようなことを言ってはいるものの、言った本人もあまり期待はしていないように見える(ただ、過去に効かなかった薬を久しぶりに使ってみたら効果的だった、ということ自体はなくはないらしい)。

打つ手がないというのは残念なことで、「まあ、また様子を見るしかないですね……」などと言いつつも主治医との会話も滞りがちになるのだが、それはそれとして、今日の彼女は様子がおかしい。彼女からの質問に答えたり、こちらから質問をしたりする際の表情、言葉に違和感がある。会話をはやく切り上げようとするし、表情も全般的に険しいし、「もしやご機嫌がナナメなのかも」と思いつつ注意して観察してみると、なんだかとてもくたびれているようにも見える。今まで何回か会話をしてきて、こういう印象を持ったのははじめてのことだ。

「まあ、そういう時もあるよねえ」とは思いつつ、会話がしにくいのはやっかいだ。さてさてどうしたものかと思いつつ、なんとなく視線を下げ、僕はあるものを発見した。

それは「太った」という腹部の大型化ではなく、例えるならば、ブラウスの下にバスケット・ボールを隠している、というような膨らみ方で、女性のこういう下腹部の形状には見覚えがある。それは今を去ること十数年前のことで、僕の奥さんのその膨らみの中には娘が内蔵されていたのだ。
あまりにも突然に現れた膨らみのような気がしてそれなりに驚いたのだが、前回の診察の時によくよく観察していたら、それらしい兆候に気付けたのだろうか。「恥ずかしくて女の子を正視できない」という、中学生並みのメンタリティを保持したまま大人になってしまった僕のことなので、むしろ今回気付いたことのほうが珍しいケースのような気はする。

とはいえ僕は大変に目が悪いので(それこそ眼科に通うくらい)、見間違いという可能性もなくはない。なので、その発見についての意見はとりあえず述べないでおいた。僕が発見したものが、「いや、ただ太っただけです」という内容のものだった場合、なんらかのハラスメントに該当するかもしれない。
ただ、見間違いではない場合、それはある意味で最強形態であり、あくまで個人的な経験から得た感想ではあるが、そういう形態の女性には逆らってはいけない。

次回の診察の予約を入れた後、彼女はこう言った。

「あ、次回は私休みますんで、代理の医師が担当します」

ああ、やっぱりと思いつつ、微力ながら彼女のラッキーを祈った。まあ、僕なんかが祈る必要がないくらい、彼女は頼もしい仲間に囲まれているのだろうけれど、こういうお祈りは多くて困るものでもないだろう。

病院から帰る途中、家電量販店でカメラを買う。新しいカメラにはずっと興味があって、「もしも買うならこれかしら」くらいの選定などはしていたものの「とはいえ目玉もポンコツだしもったいないかもなあ」というように思い直していたものだ。それが今日になって突然、「いや、ポンコツだからこそ必要なのだよ」というような思いつきに突き動かされてしまったわけなのだが、なんでまた今日になってその気になってしまったのか、理由はイマイチわからない。
わからないけど、まあ、たまにはよかろうと思っている。