CITRON.

のん気で内気で移り気で。

負けられない戦い。

僕はお腹が弱いタチで、それはもう子供の頃から延々と続く大問題なのである。
例えば通勤通学時、突然「その腹痛」に襲われる恐怖。
独特の痛みが、寄せては返す波のように僕の下半身を襲う。波が来ている時の痛みは強大で、まさに全身全霊の力を使って耐えなければこちらが負けてしまうのは必至だ。体中のすべての力を下腹部に集中させるので、最大防御態勢の時は歩くことすらできない。おまけにこの痛みは、腸を痛めつけると同時に、僕の体に何ヵ所かある水門的な役割を担う部分のひとつをこじ開けようとする。この水門が開いてしまうのはまずい。基本的に、これが開いていいとされているのはトイレの中だけなのだ。

そこそこ長く生きているので、わりといろいろなところでこの痛みに襲われたことがあるのだが、今回のこのタイミングというのはおそらく生まれてはじめてだろう。
僕はその時、髪を切ってもらっていたのだ。
髪を切ってもらっていて、突然、「その腹痛」に襲われたのだ。
その瞬間、一瞬びくんと体を震わせ、店員さんに「あ、すみません」などと言いながら、波の襲来に耐えたのだ。
そこはいわゆる安さとスピード重視の1000円カット(正確にいえば僕が行っているのは1300円カットだ)なので、最初に切り具合の注文を出してしまえばその後はあまり店員さんとコミュニケーションをとることはない。とはいえまったく無言でいられるわけではなく、たとえば「後ろ、これくらい切ればいいですか」みたいなことを聞かれればそれなりに回答しなければならない。
僕の心中を正直に言えば、店員さんの問いに対する答えは、
「話しかけないでもらえますか。今、それどころじゃないんです」
になるのだが、そんなことを言われても店員さんが混乱するだけなので、いつもの半分くらいの音量で、
「……いいです……」
と答えたりした。必要最小限しか口を開けなかったので、かなり聞き取りにくい声になってしまったが、体の筋肉というものは複雑に連動しているので、口を大きく開けた瞬間、それにつられてあの水門が開いてしまう可能性もなくはないのだ。
店員さんが注意深い人なら、小さくかすれた声で「……いいです……」などと言いつつ、視線は宙を泳いでいて髪の切り具合のチェックなどしていない客に対して相当な不信感を抱いたことだろう。

その他、突発的に、
「だめだもう帰らせてください」
と言いそうになる衝動と戦うのも大変だった。仮に「では帰っていいですよ」ということになっても痛みの波が襲来している時には身動きがとれないし、中途半端に切られた髪のまま帰宅しても僕がとても困るだろう。

なんとか無事に髪を切り終わり、いつもの倍くらい時間をかけて帰宅する。下腹部をなるべく揺らさないようにしようとすると、どうしても歩行速度は遅くなるのだ。腰を落としてそろそろと歩くその姿は、どことなく日本の伝統芸能っぽい。
痛みの波が襲ってきた時は、最大防御態勢をとるために立ち止まる必要がある。中年のおっさんがぽつんと路上でたたずんでいると親切な見知らぬ人に心配されるかもしれないので、そういう時はポケットから携帯電話を取り出して、画面を見つつ、
「ナルホドネー」
などと言いながら、波が去るのを待った。
よくよく考えると、自宅近くでこんなことをしているおっさんって、それはそれで心配に見えるかもしれないなあ。