CITRON.

のん気で内気で移り気で。

闇の中の小さな光。……『少女終末旅行』のこと。

ほぼ終わってしまった世界を旅するふたりの女の子の物語を、僕はずいぶんと熱心に観たり読んだりしていたのだ。「観たり読んだり」というのは、最初はアニメで知り、それから原作を読み始めたからだ。

この物語について、
「世界は終末を迎えているのに、どこかほのぼのとした、癒し系の物語」
……というようなまとめ方をしている文章を読んだことがあって、不思議な気持ちになったことがある。少なくとも僕は、この物語から「癒やし」を感じたことはないような気がしていて、そもそも、僕はこの物語のどこにそこまで引きつけられているのだろうと思ったのである。

原作を読み終えて、つまり、この物語の最後にたどり着いた今、なんとなく思うのは、僕はこの物語を読んでいる時、その物語の中にいたのではないだろうか、ということだ。
主人公であるチト、ユーリが旅の途中で出会う何人かの人間たち(イシイとか、カナザワとか)と同じように、僕もあの世界のどこかにいたのかもしれない。
僕が運転できる乗り物は自転車くらいしかないので、きっと、あの世界の僕も、古い自転車かなにかで旅をしていたのだ。そして、何回目かのパンクの時に、修理するための道具を使い切っていたことに気付き、途方に暮れたりしたのかもしれない。

だから、あの時僕は、チトと一緒に泣いてしまったのだろう。チトがなくしてしまったものがどれだけ彼女を支えていたのか、あの世界にいる僕には、まるで自分の事のようによくわかる。それを僕は見たり触ったりしたことはないけれども、ただそれだけのことだ。

生きるということは、少しさみしいことで、でもさみしいということは、不幸とイコールではない……のではないかと思う。人生観というほどしっかりとしたものではなく、なんとなく、そうなんじゃないかな、というくらいのものだ。
これは僕の性格や置かれている状況やこれまでの生き方やその他諸々の諸条件がからまりあって自然ににじみ出てきたようなものであって、あくまで僕はそう思う、というだけの話だ。

彼女たちの旅はどうやら終わってしまった。
ふたりの乗るケッテンクラートのエンジン音も、ライトの光も、もうどこにもないのかと思うと、食事も喉を通らない……ということはないが、僕の中の何かがきしむ音がする。

生きるということは、きっと少しさみしい。
だからこそ、たまーに見つかる「ちょっとしたいいこと」を、両手でそっとまもるのだ。なるべく長持ちするように、なるべく曇らせないように。
『少女終末旅行』という作品は、僕にとって、そんな小さな光だったと思う。ただその光も少しさみしい色をしていて、だから僕のさみしい気持ちをなくしてはくれない。さみしく光るその光のことを「癒し」と呼ぶのかどうか、ちょっと僕にはわからないが、僕にとってはそれは大事な光だった。
……まあ、これはあくまで、僕の感想だ。

ところで。
作者の名前は「つくみず」さんというのだが、僕も娘も「すくみず」と読み間違えていて、『少女終末旅行』というタイトルを知ったとき、つい、「これは何かまずい作品なのではないか」と思っていたのであった。ほんの短い時間の勘違いではあったが、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。