CITRON.

のん気で内気で移り気で。

(少なくとも)私のへそは動かない。

へそを曲げている最中にふと思ったのだが、へそという、曲がらないというより、曲がった状態の想像をすることすら難しい個所を、曲げる、という表現を考え出した人は大変な想像力の持ち主なのではないだろうか。
その点、「ひざを打つ」はわかりやすい。「目が泳ぐ」も、落ち着きなく黒目がきょろきょろと動くことを「泳ぐ」と表現しているわけで、これもそれなりにわかりやすい。
それにくらべて「へそを曲げる」の想像しにくさはどうだ。
いったいどこがどのように曲がるのだろう。いわゆるでべそにしたって曲がるほどでっぱっているということはないだろう。まだ、「へそがへこむ」とか「へそがゆがむ」というような表現のほうがわかりやすいのではないだろうか。

そういえば、「へそで茶を沸かす」という慣用句もある。辞書をひいてみると、これと同じ意味の慣用表現として「へそが宿替えをする」というのもあるそうだ。宿替えとは引っ越しのことである。へそ単体でどこへ行こうというのだ。

これらの言葉たちをじっと見ていると、「へそ」というものが一体なんなのかわからなくなってくる。もしかしたら、昔のへそは、今とはまったく違う何かだったのかもしれない。