CITRON.

のん気で内気で移り気で。

イマココ。

あの日、

「スーツの上着の下に、カーディガンやセーターを着込むことはありますか?」

……と、聞かれたので、そういうことはあまりない、と答えたのだ。すると店員さんは、僕が着ているサンプルの上着の内側に両手を入れてきた。その手は左右から僕の腰を沿って背中あたりで軽く合わされ、店員さんの顔は僕の左の頬のすぐそばにある。
店員さんは、僕の耳元でこう言った。

「それはいいですね。これだけ余裕があればもう少し上着を絞れます」

そこは、「よい品をよりお安く」みたいなキャッチ・コピーの、まあ、一般市民向けのスーツ屋さんで、お値段のわりには採寸が丁寧なのが売りなのだ。
店員さんとしては、今着ているサンプルよりも一段階スリムな上着を勧めたいらしい。
そうすると、たぶん、今まであまり着たことのないシルエットにはなるが、「まあ、プロがそこまで言うのなら」ということで、提案に乗ることにしたのだ。

以来一年数ヶ月。
正月太りした我が肉体が、だんだんスーツに納まることを拒否しはじめたのである。とりあえずの問題として、上着のボタンが留めにくくなってしまった。この際ボタンは全開にして、シャツのボタンも多めに開けて、チョイ悪な人として生きていくという手を検討してみたのだが、熟慮の結果、まっとうにやせることを目指すことにした。

ちなみにあの時僕の採寸をした店員さんは女の人で、上着の中に手を入れられた時はずいぶんとびっくりしたものである。
びっくりして思わず後ずさった僕は「動かないで。じっとして」と、なぜがやや命令口調で言われたのだが、その時、ちょっとだけ胸がきゅんとしたことをいまだに覚えている。