CITRON.

のん気で内気で移り気で。

バニー・マン、カミング・スーン。

「僕の病気は治るものではないので、なるべく進行を遅らせる努力をして、大変な病状になる前に僕の寿命が尽きればこちらの勝ち。……最初の主治医の先生は、そんなことを言ってました」

そう僕が言うと、現在の主治医(女医。ちょっと美人)は「そうです。その通りだと思います」と答えた。片手にはさっきの検査結果のプリントアウトを持っている。いつもそれほどおしゃべりではないが、今日は一段と口数が少ない。何か言おうとして口を開いては、唇を2、3回上下動させてぱくんと閉じる。そして、「最近、体調はいかがですか」とか「疲れていませんか」というようなことを早口で聞いてきて、「体調はぼちぼちです」とか「普通くらいに疲れてます」と答えると「そうですか……」と言いつつ資料に目を落とす。

彼女が本当に言いたいことがなんとなく想像できたので、僕は、最初の主治医のエピソードを披露して、その後、こう言ってみた。

「さっきの勝ち負けの話、もしかしたら、負けそうなんじゃないですか」

反射的にこちらを向いた彼女は、口角ってこんなに下がるのか、と感心するくらいのへの字口で、その影響なのかあごには小さなシワが入っていた。僕が子供の頃は、こういう状態のあごの事を「梅干し」と言ったような気がする。
これが、困ったときの彼女の表情なのだろうか。それはこれまでの印象よりも少し幼く見え、ごく単純に感想を言えばなかなか可愛らしいものだった。もしかしたら、僕が想定している年齢より彼女は若いのかもしれない。そもそも僕は、人の見た目から年齢を推測するのが大変に下手なのだ。

その数分後、僕は、

「それで、僕の右目は、あと何年使えるのでしょうか」

……というような発言もするのだが、ずいぶんとドラマチックなセリフを連発している割には、心中は不思議なくらい静かなのであった。主治医の想定外に可愛らしいへの字口を見ることができて、ちょっとラッキー、などと思ったりしたくらいだ。

ものすごく雑に言えば、この病気がどれだけ進行しても僕がそのせいで命を落とすことはたぶんない。
とはいえ、少しづつ視界が欠けていく病気なので、進行すればするほど不便にはなるはずだ(いや、おそらく不便なんてものではないだろう)。ただ、そこらへんのことをあまり真摯に想像しないような訓練をしているので、意外に気分がフラットでいられるのかもしれない。
いつも気にはしているけど、フタは開けない。いつかあわてふためくことになるのかもしれないけれど、少なくともそれは今ではない、ということだ。
主治医の話によると、僕がこの病気と付き合うようになってもう10年くらいになるらしい。それだけ長い付き合いになると、こういう工夫もできるようになる。

今回の検査で、進行が予想よりややはやいということと一緒に、視界の真ん中が欠けてきたということが判明した。これはなかなか残念なことである。たとえば同じ10%であったとしても、視界のどこが欠けるかによって見え方は全然変わってくる。お気に入りの写真が汚れてしまったとき、汚れた場所が真ん中かそうじゃないかでがっかり具合は変わってくるだろうし、「パネルクイズ・アタック25」でも、解答者たちはできるだけ真ん中へんのパネルを開けて、そこを見えるようにしたくなるはずだ(実は、このクイズ番組のルールをよく覚えていないのだけど、大幅に間違ったことは言ってないと思う)。
視界が欠けるということは、そこを見る担当の視神経がいくつかが死んだ、ということを意味する。視神経というのはなかなかの働きもので、どこかの視神経が死んだ場合、その隣近所の視神経たちが協力して欠けた部分を補おうとするそうだ。きゅきゅっと目玉を動かして、死んだ視神経が見れなかったものを他の視神経に見せる、というようなことを無意識に行い、脳内でどこも欠けていない映像を合成する。おそるべき技術力といっていい。
そういう仕組みがあるので、逆に言うと、この病気は自覚症状が出にくくて、自覚が出た時にはかなり進行していたということが多いらしい。ちなみに今回、主治医の言いたいことがだいたい予想できたのは、自覚症状が出てきたからだ。

目の前のメモに、「1+1=」と書いてある。
ところが、一度まばたきをしてもう一度メモを見ると、そこにはしっかりと「1+1=2」と書かれているのである。なんとも驚くべき手品の自給自足状態だが、まあそういうものだ、と思えばただビックリするだけですむ。それは例えば、モンスターの出現場所がわかっていれば、ダンジョン攻略のドキドキ感を半減することができるようなものだ。

時々、心優しき誰かから病気の状況について心配されることがあり、そういう時は「ぼちぼちです」と答えることが多いのだが、今後もしばらくはそれでいいような気がしている。ただ、今までは「ぼちぼち」という寛大なカテゴリーの中心部にいたけれど、これからは「ぼちぼち」の下限ぎりぎりあたりが僕のポジションになる。

目の前の可能性の中で、思いつく限り最悪の展開を想像すれば、それはとても大変な光景になる。だが、世の中そうそう想像通りにはいかないものだ。死んだ視神経が再生することはないが、病気の進行を遅くする新たな工夫として主治医が提案した目薬がやたらと効き目があるかもしれないし、そもそもぼくの寿命が予想よりもかなり短い、ということもおおいにあり得る。
「結局のところ、病気の進行よりも本人の寿命のほうがはやかったとは、彼は最期までお騒がせでしたな。はっはっは」
「左様左様。しかし驚きましたな。まさか東京五輪までもたぬとは。はっはっは」
……まあ、これはこれで別の問題があるような気はする。

ところで、 今日からとりあえず1ヶ月試用することになった新しい目薬には、今までの目薬よりも充血がひどくなるという副作用があるらしい。この病気の治療に使う目薬に充血はつきもので、僕はこれを「ウサギ化」と呼んでいるのだが、まさか今よりもさらに高ランクのウサギ化が可能だとは思わなかった。上には上があるというか、今まで使っていた目薬だって、「どうやったらこんなに!」というくらい赤くなるのである。
はたして、点眼後、鏡の前にどの程度のウサギ男が出現するのだろうか。どうでもいいがウサギ男というと突然怪人っぽくなるので、これからはバニー・ボーイ……という年齢でもないから、バニー・マンと名乗ることにしよう。とはいえどこかに名乗るあてがあるわけではなく、心の中の名前、ソウル・ネームというやつだ。
バニー・マンという言葉に含まれる、なんだかあまり強くなさそうな響きはなかなかいいと思う。
悪党どもを追いつめて、

「そのお嬢さんから手を離すのだぴょん!」

などと言ったりするのだ。

まあ、それはそれとして。
すっかりポンコツになってしまった目玉が、あと何年使い物になるのか、今のところよくわからない。ならば、せめて、できるだけいいものばかり見るようにしたいものだ。
僕にとってのいいものとは、たとえば、黄金色のビールが映える青空とか、コーヒーの染みがついた古い文庫本とか、短いスカートとか、まあ、そういうものだ。