CITRON.

のん気で内気で移り気で。

ずびし。

仕事の合間、トイレに行こうとしていた僕は、背後から「ずびし」と背中を突かれたのだ。
その感触から推測すると、僕の背中を突いたのは人差し指2本。「ずびし」というのは動作音ではなく口から発せられた音声だ。

背後から忍び寄り、「ずびし」と言いながら両方の人差し指で人の背中を突く。

相当面白い人の犯行と思われるのだが、会社で僕に向かって「ずびし」と言う人の心当たりがない。突然の出来事でかなり驚いていたし、ほんの一言のセリフだったので、その声色を分析するほどしっかりとした記憶が残っていないのだ。

あわてて振り返ると、そこには少し意外な人物が立っていた。
彼は何年か前に同じグループで仕事をしていた人で、僕がそのグループから離れて以来、ほとんど会話らしい会話をしていない人なのである。今年の2月だか3月にそのグループの同窓会的な飲み会があり、そこで久々に話をする機会はあったものの、それ以前もそれ以降もそういう機会はない。今でも同じフロアで仕事をしているので、どこかですれ違えば会釈くらいはする、というような間柄だ。
この状況を高校生の娘に説明するならば、かつては同じクラスでそれなりに仲も良かったんだけど、クラス替えがきっかけで疎遠になってしまった……というような例え話をすることになるだろうか。

予想外の展開に口をぱくぱくさせていると、彼は笑いながらこう言うのであった。
「なんだか背中がしょんぼりしてたから」
するってえとなにか。この人は、しょんぼりした背中を見かけると奇声を発しながら人差し指で突くことにしているのか。
そんな事を考えたらやたらと笑えてきて、トイレの前というそれなりに人通りのある場所であるにもかかわらず、少し大きめの声で笑ってしまった。時間としてはほんの数秒だった(と思いたい)けれど、我ながら純度の高い笑いだったと思う。
「しょんぼり」の件については心当たりがないわけでもなかったので、「確かに少ししょんぼりとしていたけれど、今、少しだけ気持ちが上向きました」というような内容のお礼を言った。
彼は、「それはよかった」 と言い残し、そのままどこかに去って行った。

ただそれだけの話である。
しかし、僕にとってはそれなりの事件なのであった。