CITRON.

のん気で内気で移り気で。

銀河鉄道停電中。

「……なお、この電車は、諸事情により、行き先を変えることがございます。ご了承ください」

今まで数え切れないほど乗ってきた通勤電車で、こんなアナウンスが聞こえてきた。もちろん、初めての経験だ。
……行き先を、変える?

ゆっくりと走り出す電車。
夜なので窓の外は暗い。闇の中から時おり、どこかの住宅から漏れ出した光が点になって現れる。あの光は、何色といっていいのだろう。白だろうか。それとも、銀だろうか。

そんなことをぼんやり考えながら窓の外を眺めていると、流れていく光が描く線の向きが変わっていることに気付く。いつの間にか光は頭上から降るような線を描いている。たとえば、目の錯覚か何かが原因で、こういう風に見えることもあるのだろうか。これではまるで、この電車は空に向かって走っているみたいだ。
「まさかねえ」
そうつぶやきながら、電車の行き先をぼんやりと眺める。

大きな光のかたまりが前方から近づいてくる(もちろんそういう風に見えているだけで、実際にはこちらが近づいているのだが)。
キラキラとしたその光が近づくにつれ、その正体がグラウンドの照明設備だということがわかる。米粒よりももっと小さく見えていた何かが、野球をやっているということもわかってきた。ピッチャーが投げたボールを、バッターが打つ。それはとてもいい当たりだったようで、ピッチャーはあわてて頭上を見上げる。
ピッチャーはぽかんと口を開けたまま天を仰ぐ。ここからは彼の顔が真っ正面に見える。
彼は僕に気づいただろうか。がっくりと膝を折る彼の姿がどんどん遠くなる。
背後から、僕の名を呼ぶ声が聞こえる。

……この時、僕の名を呼んだのがカムパネルラなら『銀河鉄道の夜』だし、顔が真っ黒な闇になっていて、その中に黄色い目がふたつ光る車掌さんだったら『銀河鉄道999』なわけだが、僕のそういう妄想はごく現実的に裏切られた。
「行き先を変える」とは、「一応、ここまでは行くつもりだけど、状況によっては途中で止まるかもしれないからね」という意味だったのだ。事故による運行中止からの復旧を図る鉄道会社は、現時点ではそこまでの説明しかできないということなのだろう。
ただ、それにしたって、「行き先を変える」という言い方はちょっとニュアンスが違うのではないだろうか。

結局のところ、電車は当初予定された駅まで走ることができず、途中の駅で運行中止になってしまった。これから「事故現場でクレーンを使うため、停電にする」らしい。車内アナウンスはそれ以上のことを教えてはくれず、いまひとつ要領を得ないのだが、クレーンが電車の架線に触れても感電しないように送電を止めるということなのだろうか。
乗客としては、クレーンの作業が終わり送電が再開されるまで待つか、電車を降りるか、どちらかを選ばなくてはならない。
電車が止まったところは僕がいつも使っている駅のひとつ手前の駅なので、下車して歩いて帰れないことはない。しかし、僕はしばらく電車に残ることにした。車内が停電になるのなら、ちょっと見届けてみたくなったのだ。

しばらくすると、ばつん、という音がして、車内の照明がすべて消えた。
そうなることは乗客みんながわかっていたことだが、車内が暗くなった瞬間、あちこちから、「うわっ」という声が聞こえてくる。
携帯電話の画面の光や、窓から入ってくる街明かりのせいで、車内が闇に飲まれることはなかった。乗客の多くが携帯電話をいじりはじめる中、僕はずっと、彼女の横顔を見ていた。

ずっと降っていた雨はいつの間にか止んでいたらしい。退屈そうに窓の外を眺めている彼女の顔が、外からの光にやわらかく照らされている。青白く光る頬の曲線はとてもきれいで、なぜか僕は目をそらした。
僕の挙動が気になったのか、彼女が不思議そうにこちらを見る。あわてた僕は、つい、こんなことを言ってしまった。
「顔、光ってる」
一瞬きょとんとした彼女は、すぐに不機嫌そうな顔になり、
「一日働いてりゃあ、Tゾーンもテカるっつの」
と反論めいた口調で言った。

I love you.を「月がきれいですね」と訳したのは、漱石だったか、太宰だったか。
僕はふと、そんなことを考えていた。

……というようなことは起きることはなく、しばらく待っても車内は停電にならなかったので、僕は下車することにした。どうでもいい話だけど、「彼女」って誰なんだ。僕はひとりで通勤しているのだ。まあ、書いている人間がいうのもアレなのだが。

人気のない夜道を、音楽を聴きながら歩く。
いつもより少し音量を上げて、曲に合わせて傘を振ったりしながら。
自宅まで、あと20分。
今夜はずいぶん長旅になってしまった。