CITRON.

のん気で内気で移り気で。

可能性という名の幻について。

ここ数週間ほど、毎日少しづつちびちびと楽しんでいる物語で、登場人物が記憶喪失になった。
それはそれで心配な事件ではあるのだが、ふと考えてみると、小説や映画の中でちょいちょい……とはいわないまでも、わりとよく登場し、そのわりには身近なところで見たことがないのがこの「記憶喪失」というやつではないだろうか。
個人的には記憶喪失というものになったことはないし、幼なじみがおびえたような様子で僕のことを見て「あんた……オレのことを知ってるのか? オレ……自分の名前以外、何も思い出せないんだっ!」というようなことを言われたこともない。もちろん、この場合の記憶喪失には「昨日は飲みすぎて記憶がない」という類いのものは含まれない。
絶対に記憶が戻ってくるという条件でなら、記憶がない状態というものを体験してみたいような気がする。どの程度の記憶がなくなっているかにもよるのだろうが、やはり不安なものなのだろうか。
体験後、いざ記憶を戻すときに、都合の悪い部分は削除して戻せるともっといい。

記憶喪失と同じくらい、知っているわりには現実味のない言葉をもうひとつ挙げるとするならば、それは「色仕掛け」だ。
こちらは、ついさっき読んでいた本に書いてあって、「そういえば色仕掛けってされたことないな」と思った次第である。わざわざ書かなくてもいいことかもしれないが、色仕掛けを仕掛けたこともない。
色仕掛けというと、やはり「そこまでしてでも手に入れたい何か」のために行うような印象が強い。僕がそこまで価値のあるものを持っていたり知っていたりするかというとそういうこともなさそうなので、おそらく今後も色仕掛けとは縁がない人生を送ることだろう(なんとなく残念な気持ちになるのはなぜだろう)。

ところで、僕はズボラというのか注意力散漫というのか、人の容姿や仕草についてしっかりと見ていないらしい。いわゆる、前髪をほんのちょっぴり切ったことに気付かなかったばっかりに「お前、目玉ついてんのか」くらいのことを言われ正座で説教されるタイプだ(あくまでたとえ話です)。「人見知り」とか「コミュ障」というような言葉に妙な連帯感を覚えるような人間なので、まあ、ある程度はしょうがないと本人的にはあきらめている部分ではあるのだが、今、いいたいのはそこではなく、
「実は過去に色仕掛けを実行されたことがあるのだが、気がつかなかった」
という可能性があるかもしれない、ということだ。
世の中には絶対ということはなかなかなく、この仮説だって可能性がゼロとはいえないはずだ。そのはずなのだが、どういうわけかここまで書き切った僕はばかばかしい気持ちでいっぱいだ。自分で書いておいてナンだが、なにが「可能性はゼロとはいえない」だ。

自分のブログだからといって、何を書いてもいいというものではないのである。