CITRON.

のん気で内気で移り気で。

高くもなく低くもなく。

日ごろあまりテレビを観ないということを、あまり公言しないほうがいいらしい。
最近、ネットのどこかで見かけたのだが、人前で「テレビを観ない」と言うのは、どうやらかっこつけてるように思われるらしいのだ。
ちなみに、「意識が高いと思われるから要注意」という意味のことが書いてあるサイトも見たような気がする。
これはいわゆる、「イシキタカイケイ」だと思われるということなのだろうか。

いまやすっかり定着した「意識高い系」という言葉の言わんとするところはわかるような気もするのだが、とはいえ意識が高いこと自体は悪いことではないのではなかろうかとも思ったりする。むしろ、やたらと意識が低いよりは心配がなくていい。
衛生に対する意識がやたらと低く、

「僕、地面に落ちたアイスとか全然平気です」

とか、

「私、パンツをはきかえる意味だけがよくわからなくて。上にスカートをはくから泥汚れとかめったにつかないでしょ?」

みたいなことを涼しげな顔で言う人が近くにいたほうが困ってしまうかもしれない。なんだか心配で落ち着かない気持ちになりそうだ。

さて。
僕は日ごろあまりテレビを観ない。
正確にいうと、いわゆるゴールデン・タイムにリアル・タイムでテレビを観ることがほとんどない。これは別に、意識が高かったり低かったりするからでもなんでもなく、単にチャンネル権がないだけのことだ。ないというより、優先順位が低い、といったほうが正確かもしれない。
我が家のテレビを最も長い時間視聴しているのは、なんといっても娘だ。ガチのアニオタ活動中なので、当然といえば当然である。声優さんの声を一瞬でも聞き逃さないようにヘッドフォンを装着し、気になるカットは何度でもリプレイする。おそらく、30分のアニメを45分くらいかけて観ているのではないだろうか。
もちろん、僕がどうしても観たい番組があれば(ささやかな交渉の末)快くリモコンを貸してはくれる。ただ、娘のテレビ視聴における姿勢というか態度は真剣そのもので、その入魂ぶりを見ていると「オレはこれほどの熱意でテレビと向き合えるだろうか」というような思いに胸が熱くなり、その背中に「テレビのことはお前にまかせた」とつぶやいでしまうのである。

というわけで、僕にとって「テレビを観る」ということは、「まだ家族の寝ている早朝の自由時間に、録画したものを少しづつ観る」ということになっている。
ただ、自由時間といってもやることはそれなりに多く、パソコンを触ったり携帯を覗いたりぼんやり虚空を見つめたり犬をなでたりしていると、テレビに割ける時間はそれほど残らない。その上、そもそも録画したものを観ているので、「ま、観れない分は明日にすればいいし」という安心感もあり、ついつい他のことを優先し、未視聴(もしくは視聴途中)の番組が着実に増えていくことになる。僕の中では大河ドラマといえばまだ『真田丸』なのだ。

そもそも、テレビを観るとか観ないとか、そういう話をする機会がそんなにたくさんあるわけではないが、世事にうといことの言い訳のために、「最近、テレビ観てなくて……」みたいな言い訳をすることはたまにある。日ごろ会話をする相手の年齢層が原因なのかもしれないが、雑談の中にテレビ発信の話題が出ることはわりとあるような気がする。

僕は日ごろあまりテレビを観ない。
だけどそれは、決してかっこつけているわけでもないし、「意識高い系」でも言葉本来の意味での「意識が高い」わけでもない。
本当はチャンネル権がないだけなのに、ひょっとしたらどこかで「なんだよあいつ、意識高い系かよ」などと思われているのかもしれない。

もはやテレビを観るとか観ないとかいう話とは何の関係もない事だが、そういえば自分の意識の高さの度合いについて、意識的に考えたことがないような気がする。高くないのは確実だがそんなに低くもないとも思う。強いていえば、高からず低からずということで「意識ぬるい系」というあたりがしっくりくるだろうか。

「意識ぬるい系」

……「意識高い系」の発音になるべく近づくように気をつけたつもりなのだが、それ以前に気をつけなければならないところがいくつもありそうなネーミングになってしまった。