CITRON.

のん気で内気で移り気で。

熊とワイシャツと中年男性。

池袋にいる娘から、出てこれないかと連絡がある。
時間もまだはやいし、他に急いでやるべきこともなかったので、ノコノコと池袋へ向かう。そういえば、なぜ僕を呼びつけたのか、その理由を聞いていないことに電車の中で気づく。まあ、あの娘のことだから、たいした理由ではないのだろう。

「服を買いにいきたいから、ついてこい」
合流するなり、娘はこんなようなことを言うのであった。
「それはつまり……」
僕は質問した。娘が服を買いたい、というのはわかる。しかし、それになぜ僕がついていかないといけないのか、そこがよくわからなかったからだ。
「服を一緒に選びたいってこと?」
この質問に対する娘の反応は早かった。
「それはない。中年男性にそれは求めない」
一瞬、何か注意したほうがいいような気持ちになったのだが、娘が言うことが間違いかというとそうではないのでそこについては黙っていることにした。実際、僕はしっかりと中年男性なのだ。とはいえ、正しいことなら何を言ってもいいというほど世の中はシンプルではない。そういうことに娘が気づくのは、もう少し先のことなのだろう。

問題は、僕がついていかなければならない理由なのである。要は歩く財布として召還されたのかもしれないが、それならそれで先に言っておいてくれないと困る。今、財布に現金がほとんど入っていないのだ。僕はあまり多額の現金を持ち歩かないタイプなのである。主義というような立派な理由があるわけではなく、単にお金に縁がない生活をしているというだけのことだ。状況さえ許せば、札束をメモ帳がわりに使ったり、一万円札で鼻をかんだりしてみたいと常々思っている(嘘です)。
質問の仕方を変えてみた。
「だったら、一人で行ってもよかったんじゃないの?」
この質問に対する娘の反応も早かった。
「一人でお店に入って店員さんにからまれたりしたら緊張して選べないでしょーがっ」
娘はガチのアニオタ、というやつなのである。服を買う金があるならTSUTAYAでアニメのDVDを借りる人生を迷わず選ぶ人間だ(ちなみに、DVDやBlu-rayディスクなどのメディアのことを、彼女たちの世界では「円盤」と呼ぶらしい。最近おぼえた知識なのでついでに書いておく)。
その上、わりと人見知りで、緊張しやすいタイプでもある。これに関しては明らかに僕の遺伝子が影響しているので、特に意見はない。まあ、そうだろうな、と思うだけだ。
理由としてはかなり残念なところがあるが、理屈は通っている。
それなりに納得はしたので、ちょっと気になっている別のことを聞いてみた。つまり、お金を持っているのか、ということだ。
「そんなの、持ってるわけないし」
悪びれもせず、娘はそう言った。
どうしてそう、自信満々に言えるのだ。あと、語尾の「し」はなんなんだ。
いろいろと思うところはあるのだが、とりあえず今、現金の持ち合わせがないことを告げる。実は、僕と娘の間にはちょっとした約束事があって、ある条件を満たしていて、それほど高額でなければ……というか、安ければ、服を買ってあげることにはなっているのだ。だから、服を買うのは別に構わないのだが、それならそれで事前に言ってくれないと、お金の準備ができないではないか……というようなことを言ってみた。
娘の返答は簡潔であった。
「つーか、クレジット・カード持ってんじゃん」
いやまあ、それはそうなんだけどね。
カードは使いすぎが怖いので極力使わないようにしているのだ、というような説明をしようかとも思ったのだが、僕は黙って娘の後をついていくことにした。娘の「服を買う」というやる気スイッチをオフにするのももったいないと思ったのだ。なんといっても、たまにしか入らないスイッチなのだ。

洋服屋で娘が服を選んでいる間、僕は常に店内の様子に気を配り、店員さんがこちらを向きそうになる度に、店員さんと娘を結んだ直線上に移動して、店員さんの視界に娘が入らないようにしていた。これは娘からの指示ではなく、単に僕の暇つぶしである。移動した先でぼんやり立っているのも不自然なので、手近にあるものをとりあえず手に取り、「あらやだ可愛い」などと言いながら、そっと元の場所に戻したりしていたのだが、店員さんにしてみたら「ちょくちょく視界に入っては女の子用の春物を吟味しているあやしい中年男性」に見えていたかもしれない。

買うものを選び終わったあと、娘に、
「待たせて悪かったね。男用の服もあるみたいだから、ちょっと見てみたら」
と提案される。
つい、「あ、そりゃすまないね。じゃあお言葉に甘えまして……」などと言いながら、娘の護衛(護衛?)の最中に横目でちらりと見て、ちょっと気になっていたシャツが思ったより安かったので一枚買ってしまった。今、この文章を書きながらよくよく考えると、それはつまり、現金を持っていない中年男性が、自分のクレジット・カードでシャツを買ったというだけのことである。あのとき言った「すまないね」を今からでも返してもらいたい。

ところで。
娘に連れて行かれた洋服屋の近くには雑貨屋があるのだが、その店頭にあったガチャガチャがとても目を引いたのである。
「ガチャガチャ」という表記で意味が伝わるのかどうか、ちょっと不安になったので別称も一応書いておくと、ガチャポンとかカプセルトイとか呼ばれているアレのことだ。
ガチャガチャの景品は雑貨屋のオリジナルのようで、カリタというコーヒー用品メーカーの商品のミニチュアが入っているらしい。コーヒー・ポットとか、ミルとか、サーバーとか、そういったものだ。世の中にはコーヒー好きがたくさんいるとは思うものの、だからといってその用品のミニチュアが欲しいという人がどれだけいるのだろう。  

小銭入れの中にガチャガチャ一回分の硬貨が入っていたのでコイン投入口に入れ、ダイヤルをまわしながら、
「こんなニッチなガチャガチャ、誰がやるんだろう」
と、ついつぶやく。
それを聞いた娘は、笑いながらこう言うのであった。
「こういうのすっごく喜びそうな中年男性、ひとり知ってるよ」

中年男性といえば。
勢いで買ったシャツは、形こそオーソドックスなボタンダウンなのだが、胸ポケットに熊の刺繍が入っているのである。
そこが良くて買ってはみたものの、中年男性が着るシャツとしてはどうなのか、気にならないこともない(とはいえ、まあ、着ているのですが)。  

https://www.instagram.com/p/BQZKlcCjfM0/

コーヒー器具のガチャガチャなんて、いったい誰がやるんだろう。ニッチにもほどがあるぞ。……などとつぶやきつつ300円を投入。今回の戦利品。#ガチャガチャ 僕より少し若い世代的には #ガチャポン 今風にいうと #カプセルトイ #カリタ の #コーヒー 器具 #nikoand