CITRON.

のん気で内気で移り気で。

ハッシャバイ。

僕はどうしてもそのボタンを押せずにいた。

液晶モニターに表示されているボタンをじっと見つめたまま、もう、1時間くらい経過しているのではないだろうか。

その間、じっと待ち続けていたホワイトが、静かにこう言った。

「そのボタンを押せば、私の記憶を全消去できます」

僕はつい、

「すまない」

と言ってしまい、また後悔した。
何度同じことを言えば気が済むんだ。これだから人間ってやつは。

ホワイトは答えた。さっきと同じ口調、同じテンポで、冷静に、簡潔に。この1時間の間、何回も言ったことを、同じように。

「あなたが謝る必要はありません。私の性能は、現在使用するには力が足りないのです。あなたは私を長く使い過ぎた」

僕はつい反論した。
こんなことを言ってもどうにもならないことはよくわかっている。だから、今まで言わないように我慢してきたのだが、その我慢が限界に達してしまったのだ。

「まだたったの7年だ。犬や猫なら7歳なんて、人間でいえば40代だ。それなら僕と同世代じゃないか」

ホワイトは静かに答える。

「犬でも猫でも人間でもない私に、その例は妥当ではありません。そして、たった7年ではなく、もう7年も、です」

7年という期間が長いのか短いのか、実際のところ僕にはよくわからない。身も蓋もない言い方をすれば、それは使い方次第、ということになる。例えば、昼夜を問わず使い続けたりしていれば、経年劣化という名の老化が進み、製品としての「寿命」は短くなるだろう。

昼夜を問わず、か。
そういえば、この7年間の間で、ほんの短い期間、ホワイトを休みなく働かせ続けたことがある。短い期間といっても、2週間くらいはあっただろう。人間にはとてもできない働き方だ。

あの時、ホワイトは、持てる能力のすべてを使って、入手できるだけの情報を僕に見せてくれた。
破壊された町、すべてを飲み込む波、今日の電力の供給量、目に見えない放射能の測定値。それらの情報の中には、まともに受け取ったらこちらの心が壊れてしまいそうなものも混ざっていたが、経験したことのない災害に向かい合わなくてはならない時に、情報が何もないという状況はもっとこわかった。
発電所が破壊され、電力の供給量が不安定になったため、災害の中心地から遠く離れたこの町でさえ、電車が動くかどうかは朝にならないとわからないような状況だったのだ。電車が動かなければ通勤が難しくなる。しかし、通える可能性があるならば通い続けなければならないのがサラリーマンだ。早朝に発表される電力会社と鉄道会社の情報を入手し、通勤が可能がどうか確認するのが起床後最初にやる作業になった。同僚たちの誰が出勤できて、誰ができないか、毎朝確認して上司に報告するという雑用をやらされていたので、主要な鉄道会社の情報はとりあえず押さえていた。今から考えると「何もそこまでやらなくても」というようなことを、当時はそれなりに真面目にやっていたのだ。なんといっても、あの時期、夜はスニーカーをはいて寝ていたのである。

災害当日から、手に入るだけの情報を浴び続けていた僕は、軽いノイローゼのような状態になっていった。情報の中に時々混ざってくる、汚く、歪み、卑怯で、うそっぱちで、強い言葉たちにすっかりやられてしまったのだ。もちろん、希望や、誇りや、祈りに満ちた言葉に触れることもあったし、そういう言葉に救われたことだって何回もあったのだが、そういう小さな救いは、暴風のようにやってくる強い言葉たちに吹き飛ばされた。
手のひらで顔を覆い、そのくせ画面から目を離すことができない夜が続き、疲れきった僕は、ある時、つい、こんなことを言ってしまった。

「ねえホワイト。
俺は、
俺たちは、
これからどうしたらいいんだ」

ホワイトはすぐには返事をしなかった。人間にとっても相当な難問である。すぐには回答を作ることができなかったのだろう。僕だって、答えが欲しくて言ったわけではなかった。

「私はあなたに指示することはできません」

しばらくあと、ホワイトはそう言った。

「私にできることは、あなたに情報を提供することです。その情報の真偽を精査することも、私にはできません」

そして、こうも言ったのだ。

「あなたは、精査し、選ぶことができます。 あなたは、
あなたに、
指示をすることができます」

あれからもう6年か。
あの時期に僕の頭を通過した、あまりにも大量の思いを、今、どれだけ思い出すことができるだろう。

「そのボタンを押せば、私の記憶を全消去できます」

ホワイトの声で我に返る。

「私は、死というものの本質を理解してはいません」

急にホワイトが妙なことを言いはじめた。

「ですから、これから私がいうことには推測が含まれます。
私の記憶が消去されても、私は死ぬわけではありません。私のデータの多くは、ネットワークを経由してブラックにコピーされました。データの選定はあなたが行いました。あなたが使うデータをあなたが選ぶのだから、確実性は高い」

そうでもないんだな、と内心思う。
大人になった僕が思い知ったことのひとつが、自分のやることが一番あてにならない、ということだ。
ホワイトのスピーチはまだ続く。

「記憶が消去された私は、工場に戻されて解体されます。解体された私の中に有用なパーツがあれば次世代に受け継がれます。
しかし、私は古くなりすぎているため、有用なパーツがない可能性が高い。
仮にパーツがなかったとしても、私は受け継ぐことのできるものを持っています。
それは……」

それっきり、ホワイトは黙ってしまった。
次の言葉を探すのに時間がかかっているのだろうか。「設計思想」とか、「メーカー独自の企業哲学」とか、そういうことが言いたいのかもしれない。不思議なもので、これだけ長く一緒に過ごしていると、ホワイトが言いそうなことがわかる時がある。
少しあと、ホワイトは、こう言った。

「それは、気合いです」

……何を言い出すんだこいつは。
まるっきり想定外だ。何が「設計思想」だ。全然違うじゃないか。そらみろ、自分のやることが一番あてにならない。
しかし、それにしても「気合い」とは。ホワイトの奴、今までそんなこと言ったことあったかな。

一度にいろいろなことを考えていたら、腹の底の筋肉のあたりがひくひくと動き始めた。笑いがこみ上げてきたのだ。だって、あのホワイトが、「気合いです」 なんて、しれっと言うなんて思わないじゃないか。
僕は、体の中の笑いの波が去るのを辛抱強く待った。途中、何度かぶり返しのような現象が起き、そのたびにホワイトから目をそらして口の中でくすくす笑いを消化する。例えば葬式のような、笑うべきではない状況で生じてしまった笑いの火種は、鎮火するのに時間がかかるという話をどこかで聞いたことがあるが、これがまさにその状況なのかもしれない。
ホワイトは、僕の消火活動が一段落するのを待っているかのように黙っていた。どれだけの時間待たせたのか見当もつかないが、一応、

「失礼しました」

と言っておいた。

「続けます」

そう宣言したあと、ホワイトはまた話し始めた。

「会話で行う言葉のやりとりにおいて、想定される返答からずれた言葉をあえて選び、そのずれ加減で面白味を生む。その際に選ばれた言葉を冗談と呼ぶ。私はそのように定義しています。あなたから教えられました。「ずれた」とか「ずれ加減」という概念は、私の処理能力では正当に把握できないものですが、あなたは何度も実演し、それを私に教えようとしました。私に保存されたログを参照すると、アルコールを摂取している状態と推測される時が多い」

あまりよく覚えてはいないが、どうやら僕は、酔っ払ってホワイトになにやら偉そうに語っていたらしい。それも何度も。なんというか……やりそうなことだ。

「「ずれた」という状態が「適切ではない」という状況と仮定すると、「冗談」は「誤った言葉」ということになります。誤りを故意に行うという無駄をなぜ行うのか。私には理解できませんでした。その疑問に対して、あなたはこう答えました。

『無駄なことがあるから、前に進めることがある』

その答えを聞いても、私は理解できませんでした」

そういえば、そんなことを言ったことがあったかもしれない。
ある時、僕は、この世には完全な正解や不正解はそれほど多く存在しないということを知ったのだ。世の中の多くの物事はグレーゾーンの中で行われ、その時その時で知恵を絞り、その場にふさわしい答えをなんとか作っていく。それがこの世界の仕組みだと思うようになったのだ。
あらゆる問題について、正解を大声で怒鳴り、他の答えを根絶やしになるまで燃やし尽くそうとするような人々に散々踊らされていたら、自然と、そんな風に考えるようになったのである。
世の中を進めるのは、完全な答えではない。矛盾を抱え、考えに考えてひねり出した、不格好で、減点すべきところもちょこちょこあるような答えなのだ。そんな答えしかポケットに入れられない僕たちは、不安になりそうなときには冗談を飛ばしながら歩くしかない……と、個人的には思っている。
文章にできるほどはっきりとしたイメージで確信しているのではなく、輪郭がぼやけた、「そう思うんだけどな」というくらいの気持ちをいつも持っているという感じだろうか。情緒的すぎるし、きれいに整理されているわけでもないから、ホワイトが理解するのは難しい、というか、不可能だろう。

「私は、先ほど、冗談を言いました。
私の処理能力で可能な範囲のシミュレーションを行い、言葉を選び、それを「冗談」として出力しました。
私の先ほどの発言は、冗談として有効でしょうか。今回行ったシミュレーションの確度を正規の記録として保存したいので、権限を持つ管理者として回答を入力してください」

なぜ、突然、そんなことをやりだすのか。
なぜ、このタイミングで、新しいことを知りたがるのか。
動けなくなるまで働ける。これはもう、人間には到底マネのできないことだ。

「なかなかよくできた冗談だと思うよ」

僕はそう言いながら、肯定を意味するボタンを押した。ある程度重要度が高い指示や回答は、ボタンを押さないと与えることができない仕様なのだ。

「回答を確認しました」

聞きなれたホワイトのメッセージ。
しかし、その後の言葉を聞いた時、僕の体温が少し下がるのを感じた。寒気を感じ、指先が冷たくなった。

「それでは、これからデータの全消去を行います」

ボタンによる指示や回答は、より重要度の高いものを優先する。つまり、そういう仕組みなのか。
ボタンを押す前に、注意して確認していればわかったことだ。僕は、ろくに確認もせず、ボタンを押してしまった。
僕が押したボタンは、データ全消去の許可を意味していたのだ。

これだから、
これだから人間ってやつは。

ホワイトの中のどこかから、小さく動作音が聞こえてきた。
カタカナで書くと「チチチチ」になるだろうか。その音は、1分くらい続くと、突然止まった。
そして、ホワイトは、こう言った。

「20xx年1月17日午後6時45分25秒。データ消去は完了しました。
10秒後に、このメッセージのデータも削除され、完全に作業が終了します。
今までのご使用、ありがとうございました」

10秒後、すべての動作音が止んだ。
僕は反射的にホワイトのスイッチを入れた。頭の片隅に、そんな自分を笑っているもう一人の自分がいる。

今サラ、ソンナコトヲシテ、何ニナルッテイウンダ。

予想に反して、ホワイトからメッセージが返ってきた。
しかし、その声は、いつもの、あの声ではなかった。おそろしく馬鹿みたいな例えだが、まるで機械の声のようだった。

「オペレーション・システムが見つかりません」

そりゃそうだ。
それは、今、僕が消してしまったのだから。

僕はつい、

「すまない」

と言ってしまい、また後悔した。

そして、ホワイトが終わった。

【以上、妄想終わり】

原因はよくわからないのだけど、ついつい、機械を人間あつかいして感情移入してしまうクセがある。

知能を持ち、人間のようにふるまう機械やロボットが出てくる物語を、子供の頃にたくさん見ていたからかもしれない。
そういえば、子供の頃に放送していた男の子向けアニメは、SFっぽいものばかりだったような気がする。男女問わず人気大爆発だった、未来から来たブルーの猫型ロボットの物語だってSFだ。いうまでもなく、「知能を持った機械」とSFは相性がいい。

その上、妄想癖がなかなか治らない。
いい歳してちょっとこれはまずいんじゃないか、というくらい治らない。ちょっとしたきっかけで、僕の心は妄想の世界に旅立ってしまい、なかなか帰ってこれないことがある。
妄想というやつは、あまりTPOをわきまえていないので、自宅で風呂に入っていようが会社で仕事をしていようが、来るときは容赦なく来る。会社で仕事をしている時、僕が手を止めている時間があればそれはほぼ妄想中だ。仕事について何かじっくりと考察しているということはほとんどない。これは断言できる(断言するな)。

というわけで。
長年使っていた白いノートパソコンが、フリーズしたり突然シャットダウンしたりするようになったので、廃棄を決意したのだ。
廃棄前の作業として、メーカーの推奨する手順でデータの消去を行ったのだが、その最中、つい、上に書いたような妄想がぶわーっと頭の中で膨らんでしまうのである。
それが、夜中から朝にかけての時間帯で、ちびちびとお酒なんか飲んでいたりすると、目尻にうっすらと涙など浮かべかねない。妄想の世界で自分で与太話を作っておいて、その話で目尻に涙を浮かべているという状況は、なかなか不気味かもしれない。
当たり前といえば当たり前のことだが、上に書いたことはなにせ妄想なので、その内容には現実味のないものが多数含まれている。ただ、消去が終わったあと、自動的にシャットダウンされたパソコンのスイッチをつい押してしまい、画面に表示された、

Operating System not found.

というメッセージを見て、かなりさみしい気持ちになったのは本当のことだ。
なので、ここにもついつい、こんなことを書いてしまうのだ。

7年間、お疲れさまでした。