CITRON.

のん気で内気で移り気で。

コタツのフジコちゃん。

この時期になって、家族の一人が「コタツが欲しい」と言い出した。

我が家にはコタツがないのである。
どうしてコタツがないのかというと、我が家には「コタツが嫌い」というメンバーがいるのだ。もうずいぶん前の話になるが、「今まで黙っていたが実はコタツが嫌いだ」という話を聞いたときの僕の驚きぶりは、ちょっとしたものだった。
なんとなく、コタツといえば定番家電というか、当たり前にそこにあるものだと思っていただけに、嫌いという評価があり得るものだという意識がなかったのだ。なんというか、「空気が嫌い」と突然言われたような衝撃、とでもいいましょうか。当然あるべきものについて、嫌いって言われても困っちゃうよなあ、と思ったのだ。
あの時の僕は、あまりにもコタツを好きすぎたために、「コタツのない冬」という状況をうまく想像できなかったのである。ただ、今ならわかる。人間はコタツがなくても生きていける。今の僕のように。

嫌いなメンバーがいるのがわかっていてコタツを導入するわけにもいかないので、我が家にはもう何年もコタツがないのだが、僕はコタツが大好きだ。一度入ってしまったが最後、僕の体の輪郭はあいまいになり、どこまでが自分の体でどこからがコタツなのかわからなくなる。コタツから手足だけ出して、ガメラのような形態で生きていけたらどれだけ幸せだろうとひと冬の間に三回くらいは考えたものだ。

最新のコタツ事情はよくわからないが、僕が子供の頃実家で使っていたコタツは、赤く光る電球のようなヒーターを使って内部を暖めていた。真っ赤にカッと光るヒーターはいかにも熱そうで、目の粗い金網製の赤いカバーでおおわれていた。
かなり大昔の話なので、しっかりと覚えているわけではないのだが、そのカバーはコタツのテーブル部分にネジで固定されていたはずだ。で、何本かあるネジの中で、一本、ネジの先端部分が異常に熱くなるものがあったのである。ウチの実家のコタツに問題があったのか、それとも当時のコタツの設計がおおらかだったのか、そこらへんの事情はよくわからないが、思い返すとなかなか危なっかしい話ではある。

小学生の頃、僕の密かな楽しみは、コタツの設定温度を最高にして、アツアツになったそのネジをわざと足の裏で触ることであった。
触ろうかな、でも怖いな、とさんざん迷った挙句、勢いをつけて足の裏をそのネジの先端部分につける。当然、とても熱いのでずっとくっつけていられるわけはなく、ほとんど条件反射的に離した足の裏をコタツの外に出して、「あっちぃー」とか言いながら冷ますのがちょっと好きだったのだ。毎日やるほど好き、というのではなく、ひと冬に一、二回、なんとなく思い出したようにやってみるのである。たぶん、ちょっとした度胸試しだったのだろうけど、かなりしょうもない遊びだ。

……いや待て。
この遊びについて、あまり深く考えたことがない、というか、数十年ぶりに思い出したのだが、これ、本当に「ちょっとした度胸試し」だったのだろうか。もしかして、自らの肉体を痛めつけることに不思議な喜びを感じていた……というようなことが無意識にでもあったとしたら、それはそれで興味深い話だ。今、自分の胸に手をあてて考えてみると、自分にそういう資質があるような気もするし、ないような気もする。

コタツでの遊びといえば、プラスチックの容器に入った粒状のチョコレートを、ヒーターのそばにテープかなにかで固定して、こっそり溶かすのも好きだった。今でこそ「溶けたからなんだというのだ」とか「そりゃ溶けるがなコタツに入れっぱなしにしていれば」などと思うのだが、当時は科学の実験でもしているような気分だったのだろう。温まった容器を取り出しては「うむ、溶けた」などと納得し、チョコ自体は指でぬぐってなめたりしていたのだ。ほんとうにしょうもないことである。
それにしても、当時、甘いものを買ってもらう機会などほとんどなかったのに、それでもその貴重なチョコレートで実験を施行していたのだから、よほどその遊びが気に入っていたのだろう。僕は子供の頃、「太り気味だった」とか「弟が甘いものが嫌いだった」というような理由で、親から甘いものを買ってもらうということがほとんどなかったのだ。

思いつくままつらつらと書いていたら、いっこうにフジコちゃんが出てこない。
今回のタイトルは『コタツのフジコちゃん』なのである。
何年かぶりにコタツのことを考えていたら、それにひっぱられるように、フジコちゃんのことも思い出したのだ。あれば僕が学生の頃の話だ。大昔といっていい。

フジコちゃんは、赤い着物を着たおかっぱ頭の女の子だ。姿かたちは人間そのものなのだが、体調は30センチくらいしかない。ある日、コタツの中を覗き込んだら、ヒーターの赤い光に照らされて、フジコちゃんが正座していたのである。
……というのはまったくの大嘘で(当たり前だ)、フジコちゃんは、当時、僕が住んでいた部屋に(大家に内緒で)かくまっていた野良猫のことだ。
ある寒い日に、轟音とともに現れて、これまたある寒い日に、ふといなくなったフジコちゃんだ。
そうなのだ。今回はフジコちゃんのことを書こうと思っていたのだ。溶けたチョコレートのことなどどうでもよかったのだ。

というわけで、次号に続く。