CITRON.

のん気で内気で移り気で。

奴のガム。

いい歳を……というのがどれくらいの年齢を指すものなのか、人によって捉え方はまちまちかもしれないが、今回に関しては30代前半、ということにする。

いい歳をした男が、平日、姪の歯医者に付き合っている。
なぜかというと、暇だからだ。彼は定職に就いていない。なぜかというと、働いてお金を稼がないと生きていけないという境遇にいないからだ(その境遇について、細かいところはよくわからないが)。

彼の父親は最近亡くなったらしく、それは彼の生活にも少なからず影響を及ぼすはずなのだが、とりあえず彼は「遺産があればしばらくしのげる」と思っている。
そういう彼の態度について、周囲の人たちはあきれたり心配したりしているのだが、それについて彼が何かを改めるということは当面なさそうだ。
そんなある夜、彼は、鏡の中の自分に笑われていることに気づく。

……どこかに意訳が混ざっているような気がしないでもないが、キリンジの『奴のシャツ』という曲は、だいたいこんなような内容だったのではないだろうか。
この曲を聴くと、ついつい夏目漱石の『それから』を思い出してしまい、そこからの連鎖反応で、松田優作が中村嘉葎雄に説教されている光景が目に浮かぶ(映画版『それから』のキャストなのだ)。
原作にしても映画にしても、ラスト・シーンがけっこう好きで、そこはわりとよく覚えているのだが、それ以外のシーンについての記憶は見事に蒸発してしまっている。つまり、物語のほとんどを覚えていないということだ。帰宅したら読み返してみてもいいかもしれない。
著作をすべて読んでいるわけでもないし他の文豪と比較できるような読書家でもないのだが、夏目漱石の言葉づかいはけっこう好きなのである。

……というようなことを歯医者の待合いコーナーでぼんやりと考える。

今日の治療の最大の問題点は、ガムを禁止されてしまったことだ。
自己判断で摂取を控えるようにしていたとはいえ、正式に禁止されてしまうとめまいがする。仕事中、僕は重度のガム依存症になってしまうのだ。
これからしばらく、ガムもないような状況で無事に会社員として過ごすことができるだろうか。そんなことを考え込んでいると不安で頭が熱くなってくる。
僕は、

「ああ、焦げる焦げる」

と、口の中でつぶやいた。