CITRON.

のん気で内気で移り気で。

新しいペン。新しい言葉。(『パターソン』のことを少し。)

新しい筆記用具を手に入れると、それだけで、ほとんど条件反射的に、気持ちがうきうきする。キャップを外したりボタンをノックしたりしてペン先を出し、そのへんの紙の上をさらさらと走らせる。描くものは意味のない線だったり、たった今まで聴いていた歌の歌詞だったりする。そして「まるで僕らはエイリアン」とか、「日本をインドにしてしまえ」とか書きながら、これを書いている僕はいったい何者なのだと苦笑したりする。
ちなみに何も思いつかないときには「あめんぼ あかいな あいうえお」と書くことが多い。池袋のロフトや東急ハンズの文房具コーナーにあるボールペン売り場で、試し書き用の紙に「あめんぼ あかいな あいうえお」と書いてあった場合、かなり高い確率でその作者は僕なのではないかと思う。
ここで忘れてはいけないことは、もし、その筆記用具が夢のような書き心地であっても、自力では二度と買えないような高級品だと使い続けるのが難しくなるということだ。そもそも、日々使っていれば何かの拍子になくしてしまうこともあるわけで、そういう時のことを考えても、少ししょんぼりしたあとに、すぐに新しいものを手に入れられるくらいの価格帯が望ましい。

僕は、毎日の生活の中で思いついたり見つけたりした言葉を、メモ帳にごちゃごちゃと殴り書きするのがわりと好きなのだ。2語か3語のキーワードのようなものを書くときもあれば、ひとつの単語だけをぽとりと書くこともある。 これは、趣味というよりはクセとか体質に近いような気がする。たとえば、毎日欠かさずするけれども、歯磨きを趣味だという人はあまりいないというような、そういう感じのものだ。

時々、メモ帳に書き留めた言葉を頭の中で転がしたり伸ばしたり組み合わせたりして、ごく小さなストーリーを作る。いや、「ストーリー」というのは少し大げさで、どちらかというと「小話」に近いものかもしれない(もしそれが笑えるようなものならば)。
できあがったストーリーは、文章にしてブログに載せたり、その時たまたま目が合った運の悪い人に話してみたりする。もちろん、自分の中の想像の世界にそっと貯め込まれることも多い。
文字や声で発信された僕のストーリーの大事なところ(面白かったとか、力が抜けたとか、悲しくなるくらい滑稽だったとか)が、できればうまく相手に伝わるといいのだけれど、空回りしてしまうことも多々あるようで、体感的には、半分くらいは空回りしているような気がする。おかげで、僕の足の裏のゴムはよく溶けて、スリップしにくい体になってしまった(←こういう記載が空回りのもとになる)。

新しい筆記用具は「これを使うと、いい言葉がスラスラと浮かんでくるかもしれない」というような、あまい魔法を僕にかけてくれる。まあ、魔法はけっこうはやく解けてしまうので、すぐに現実のほろ苦さと向き合うことになるのだが、ほおづえをついて、新しいペンで渦巻きかなんかを描きながら、いい思いつきがやってくるのを待っている時間というのは、けっこう悪くないものだ(感想には個人差があります)。

ジム・ジャームッシュの『パターソン』の主人公であるところのパターソンくんはバスの運転手さんだ。彼は、日々繰り返される日常の中で、こつこつと静かに詩を書いている。書いた詩は、たまに奥さんには聞かせてあげたりするようだけど、基本的には自分の中にしまっていて、外の世界に発表するつもりはないらしい。
彼の生活の中の風景にはさまざまな言葉が溶け込んでいて、彼にピックアップされるのを待っている。だから、彼は詩を書かずにはいられない……というか、彼にとってはそれが当たり前というだけのことなのかもしれない。
言うまでもないことだが、彼の詩作と本業のバスの運転手の仕事の間には直接的な関係はなく、彼の収入にも影響しない。
この広い世の中には、そういう人がたまにいるようで、個人的には親しみのようなものを感じたりもする。この親しみは映画としての『パターソン』の感想と同じだ。

『パターソン』を観たのは新宿の映画館で、入場者プレゼントということでポールペンをもらったのだが、これがなかなかよかったのだ。
それは、作品のロゴみたいなものがいっさい入っていない、文房具店に普通に置いてあるボールペンなのである。 もしかしたら、パターソンくんみたいに、いつでもどこでも思いついた時に言葉が書けるように、気兼ねなく使えるようなポールペンを映画館の人は選んだのかもしれない。ちなみに書き味はなかなかよくて、上映待ちの間、メモ帳に「あめんぼ あかいな あいうえお」などと書きながら、つい「ふふふ」と笑ってしまった。

僕は新しいボールペンを持っている。
新しい筆記用具は、気持ちをうきうきさせる。
さて、何を書こう。