CITRON.

のん気で内気で移り気で。

サラリーマン疾走。

いわゆるママチャリと呼ばれるタイプの自転車と一緒に、彼女はぽつんと立っていた。
右手でハンドルを握り、腰のあたりに車体を寄りかからせている。街灯の明かりの下で、左手に持った紙を見ながらあたりをおどおどと見渡しているように見える。
そこはなんてことのない住宅街の路地で、時刻は8時少し前。会社から帰る途中の、自宅近くで出くわした光景だ。
おそらく彼女は道に迷っているのだろう。
「道に迷っている人の演技をしている人」に見えるくらい、彼女は道に迷っているように見えたのだ。
彼女の顔がこちらを向き、ぴたりと動きが止まる。

数秒後、僕は彼女の持っていた紙をのぞき込み、頭をひねっていた。
「区民センターに行きたいだけど」
という彼女は片言で、日本の人ではないようだ。そういえば、「日本人ではないアジアの人の顔」に見えるような気もしないでもない。
「今日、ここ行かないと、大変なの」
そう言われて手渡された紙には地図が描いてあるのだが、それによると僕らが立っているこのへん一帯はすべての道が碁盤の目のように90度に交差していて、幼稚園も駅もスーパーもコンビニも区民センターもすべて等しく同じ大きさの長方形らしい。
ここは銀座でもなければ京都でもないし、大規模スーパーに匹敵する床面積を誇るコンビニもない。よほど地図を描くのが苦手な人の作品だと思われるが、これを見て区民センターに無事にたどり着ける人は、地図がなくても大丈夫なくらい土地勘のある人だけなのではないだろうか。確実にいえることは、彼女がここまでたどり着けたのは奇跡ということだ。

とりあえずこの地図は見なかったことにして、なるべく簡潔な日本語で説明を試みるが上手くいかない。僕としては、目的地に行くための目印になりそうな場所を説明して、そこを右に曲がるとか左に曲がるとか言いたいところなのだが、彼女は、僕が何か言うたびに、目印にたどり着くまでの信号の数とコンビニの有無を聞きたがるのである。
これはあとで気付いたことなのだが、おそらく、日本語があまり得意ではない人にとって、僕がしようとした「そろばん塾のところの角を右に曲がって、つぶれた自転車屋が見えたら……」というような説明はハードルが高いのだ。イメージくらいはつかめるかもしれないけど、日本語や、そもそも日本について知っていることが少ない人が、そろばん塾の小さな看板を見つけるのは容易ではないかもしれない。
それに比べれば、信号とかコンビニといったもののほうが日本ビギナーにも見つけやすいのは間違いない。それはそれで納得はいくのだが、僕には信号の数を意識して歩く習慣はないし、ここから目的の区民センターまで、たしかコンビニはひとつ、それも区民センターの真ん前にあるだけのはずだ。つまり、彼女が有効活用できるような情報を提供できないのだ。
なんというか、問題の地図の作者を厳重注意したい気持ちでいっぱいだ。

なかなかはかどらない道案内に困った僕は、ほとんど無意識に腕時計を見た。いい解決策を考えている間の時間稼ぎのようなものだ。
時刻は8時5分前。
……8時5分前?
なんとなく嫌な予感がする。僕は彼女に、区民センターは何時まで開いているのか聞いてみた。
彼女は、僕の腕時計をのぞき込み、困ったような笑顔でこう言った。
「8時なんだよねー。もう間に合わないよねー」
区民センターまでそれほど距離があるわけではないが、普通に歩いていては間に合いそうもない。まして、はじめてそこに向かう人ならなおさら時間がかかるだろう。
僕は決してとびきりの善人というわけではない。ただ、他に解決策が思いつかなかったので、つい、こんなことを言ったのだった。
「走ります。ついてきてください」

かくして、カバンを小脇に抱えて、首からネクタイをぶら下げた中年サラリーマンが、ママチャリに追いかけられるようにして夜の町をひた走ることになったのだ。
併走するママチャリからは、
「ごめんねー、ごめんねー」
という声が繰り返し聞こえてくる。そんなに何度も謝らなくてもいいとは思うのだが、時間にも体力にも余裕がないのでそのままほっておく。ここで振り返って「そんなに謝らなくていいですよ」などと言うような余計な運動をしたばかりに、ゴール前で倒れてしまうことも充分にありうる。日頃運動をしていないので、自分がどれだけ走れるのかまったく予測がつかない。いきなり体が動かなくなり、すっころぶような気がしてしょうがない。

事情を知らない人から見ると、走る僕たちはどういうシチュエーションに見えたのだろう。人物の配置と、ママチャリという小道具という点だけでいうと、「なんらかの運動部に所属していて、トレーニングのためにジョギングしている主人公と、ママチャリでそれについてくるおせっかいなマネージャー(幼なじみ)」と似たようなところがあるのだが、実際に走っているのはネクタイをした中年男だし、ママチャリに乗っているのは初対面の外国の女の子だ。ましてや、女の子の口から発せられるのは「ファイト、ファイト」ではなく、「ごめんねー、ごめんねー」である。追いかけている方が謝っているというのもなんとなく妙だし、我ながら、相当わけがわからないコンビに見えたのではないかと思う。

区民センターに向かう最後の直線まで来たところで、僕はスピードを落とした。ここまでくればもう迷うことはないだろう。ほんの2、3分走っただけだがもう息が上がっている。もちろん横っ腹も痛い。
「この先、右側にセブンイレブンがあるから」
と僕は声を絞り出し、両手をあげて右側を指す。疲労のためか体の細かい制御がうまくいかず、動作が大げさになっている。暗い夜道を走るママチャリからでもわかりやすいように両手を高く上げているので、動作が大きい分には問題はない。
セブンイレブンが見えたら、その反対側が区民センタ-」
そう言いながら今度は両手で左側を指さす。
僕はとうとう立ち止まり、
「もう大丈夫」
と声をかけた。
ママチャリは止まることなく走り続けたが、走りゆく彼女の背中から、
「ありがとー、ありがとー」
と聞こえてきた。

僕はぜえぜえと呼吸をしながら、さっきの両手で左右を交互に指すポーズは、マイケル・ジャクソンの「スリラー」の振り付けに似ていたかもしれない、などと考えていた。

彼女が区民センターにつくのは8時ぎりぎりというところだろう。彼女の目的は達成できただろうか。
うまくいくといいな、と思う。