CITRON.

のん気で内気で移り気で。

ハピネスさん。

名も知らぬその人のことを、僕は心の中で「ハピネスさん」と呼んでいた。
全体的に大柄で、(ご本人が喜ぶかどうかわからないが)動物に例えると熊、という感じの男性だ。年齢はたしか7つくらい下だったと思う。まあ立派なおっさんだ。
ハピネスさんに会ったのは去年の夏、それも一度だけなので、今となってはあまりよく覚えていないのだが、髭がたくさん生えていて、人なつっこい瞳の人だったように思う。はじめて夏フェスに参加した僕が、見よう見まねでおどおどと場所取りをしていた時、「おひとりですか?」と声をかけてきたのだ。
僕が、ひとりであること、こういうフェスに参加するのは初めてであることを告げると、ハピネスさんは自分もひとりなので、少しお話でもしませんか、というようなことを言ってきたのであった。
ハピネスさんは千葉のほうで仕事をしているそうで、ひと夏に何回かフェスに参加しているらしい。今日は、いつも一緒に参加する友人の都合がつかなくてひとりで来たそうだ。
元来人見知りの僕としては、初対面の人とペラペラ話すなどというのは相当にハードルの高い作業なのだが、不思議とハピネスさんとは(比較的)普通に話すことができた。ハピネスさんの風貌や話し方から漂ってくるムードのせいもあるが、そもそも同じフェスに参加するくらいだから音楽の趣味がわりとあうのがありがたかった。社会人になってから、ひとりで探した音楽をひとりで手に入れてひとりで聴くことが多かったので、「好きな音楽について人と話す」という行為は高いハードルを蹴り割るくらいの効果があったのかもしれない。きっと僕は、年甲斐もなく少しはしゃいでいたのだろう。
フェスの間中、僕はビールを、ハピネスさんは焼酎をちびちびと飲んでいた。空の下で音楽を聴き、だらしない姿勢でビールを飲み、ハピネスさんがくれた枝豆を食べながら、なんだここは天国か、と思った。ここには快適なものしかない。音楽とビールくらいで天国というのも大げさかもしれないが、まあ、僕は基本的に安上がりなタイプなのだ。
少なくとも、一番楽しみにしていたバンドの演奏前に雨が降りはじめるまでは、そこは天国のようなところだったのだ。

フェスが終わり、会場近くの駅で、僕とハピネスさんは「また来年」と挨拶して別れた。
しかし、メールとかLINEとか電話番号とか、我々をつなぐ情報はひとつも交換しなかった。
交換してもいいような気持ちにならなくもなかったのだが、それはさすがに甘えすぎだろう、というような自制をしてしまったのだ。
なんというか、つまりはそれが、人見知りとしての僕の限界だったのだ。

今年のフェスは、明日開催される。
ハピネスさんは来るだろうか。
数万人も人が集まるフェスで、偶然ハピネスさんと再会する可能性などほとんどないに決まっているのだが、遠目に見て目立つくらいに大柄なハピネスさんである。もしかしたらもしかするのでは……などとついつい思ったりもする。

明日のフェスは、大勢の人が集まった広大な広場に、レジャーシートを敷いて場所取りをするという仕組みなので、重度の方向音痴の僕などは、トイレなどから戻ってきたときに自分の場所を見失いがちなのである。
そういうときに、大柄なハピネスさんは、目印としてとても重宝したのだ。