CITRON.

のん気で内気で移り気で。

いつかウサギになる日まで。

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今日は通院日なのであった。
それも、わりとみっちりと検査をするほうの日である。
いつものようにいつもの検査をするというだけではあるのだが、今日から主治医が変わるので、なんとなく緊張する。ましてや今度の主治医は女医さんなのだ。なんとなく緊張するのも無理はない。

なんとなく緊張したのがよくなかったのか、他に原因があったのか定かではないが、検査の結果はいまひとつであった。
「担当が変わって初回の診察だから、信用できないかもしれませんが」
というような前置きの後、女医さんが語るところによると、僕がこれまでの主治医と実行していた作戦、つまり病気の進行を遅くして生きている間は視力を残すという、名付けて「勝てないならせめて負けない作戦」の行く末に暗雲がたちこめているというのだ。
さらに女医さんは、より強い効き目の目薬への変更を提案してきた。
これから定期的に診察していく中で、「お、意外と暗雲なかったじゃん」ということになればもとの薬に戻すことは可能らしい。ただ、(結果的にもとの薬に戻すことになったとしても)手を打つならはやいほうがいい、というのが女医さんの意見なのである。

まあ、しょせん目薬の話なので、それが変わったところでなにかが面倒になることもないし、代金もほとんど変わらないということなので変更するのはかまわないのだが、逆に気になるのは「代金が変わらない上に効き目が強い薬」があるのに、なぜ今までそれが処方されなかったのか、ということだ。
そこを確認すると、女医さんは少し迷うような口調で、こう言ったのであった。
「効き目が強い分、副作用も強く出る可能性があります」
つまり、僕のウサギ化がより進むということらしい。

ウサギ化とは、処方された目薬の副作用による目の充血のことである。細かくいうと副作用はもっと他にもあるのだが、これが一番目立つのだ。
幸運にも自分の目玉を見る機会はあまりないので、充血したときのビジュアル的なインパクトについてはよくわからないところもあるのだが、周囲の人の話を聞くとこれがなかなかのものらしい。特に、夕方あたりの目が疲れている時間帯や、お酒を飲んだときなどは思わず二度見するレベルで「かなり心配な感じ」に見えるようだ。さすがに白目部分がすべて真っ赤ということはないのだが、パンナコッタにイチゴのソースをかけたくらいの赤み率になるらしい……って、無駄にかわいらしい例えをしてみたものの、むしろ状況がわかりにくくなってしまったような気がしないでもない。

正直にいえば、日常的に目玉にイチゴのソースがかかったような状態になっているのもそれについて心配されるのも困ったことではあるのだが、視力がなくなってしまうとおそらくもっと困ったことになるので、ほぼ即答で強い薬を処方してもらうことにした。あまり迷うことなく即決することができたのは、もしかすると女医さんがけっこう美人だったというのも関係があるかもしれない。

どうせ目玉のウサギ化が進むのであれば、いっそ、他の部分もウサギ化してしまえはいいのだ。
つまり。
目玉が赤くなったあと、身体中にモッフモフの白い毛が生えてくるのである。同時に、耳の位置が頭頂部に移動し、にゅーっと長くなる。ここまできたら顔もウサギのものにチェンジしたいところだが、頭身のバランスは人間のものであったほうがいい。そこまでウサギのものになってしまうと電車に乗って会社に通うのが厄介なことになりそうだ(ケージに入らないと電車に乗せてもらえないかもしれない)。
身体中がモッフモフの毛で包まれているとスーツを着ても暑いだろう。ここは勇気を出して全裸で通勤することにしたい。ただし、サラリーマンとしてのアクセントとしてネクタイはする。当然メガネも必要だ。そして片手にカバンを持ち、会社に通う。
人間が全裸にネクタイだけして会社に現れたら大事件になってしまうが、これがウサギなら相当かわいいことになるのではないだろうか。身長170センチちょいで、手足がひょろんと長いウサギが、二足歩行で歩いたり、会社でパソコンのキーを叩いたりするのである。かわいくてモッフモフしたものが好きな女の子というのものはどこの世界にも一定数いるはずで、そういう女子たちのハートをきゅんきゅんさせてしまう可能性はかなり高い。
このチャンスをうまく生かせば、今までの人生で経験をしたことのない「モテキ」を体験することも可能かもしれない。バレンタイン・デーには、頬を赤らめた女の子たちから、山ほどニンジンをもらうのだ。

ところで。
「勝てないならせめて負けない作戦」について考える時に避けて通れないのが、自分が何歳まで生きたいのか、ということなのだ。この作戦の内容が「生きている間は目が見える状態を保つ」というものなのだから、「生きている間」ってつまりはいつまでなんだろうと思うのは自然なことだ。
これといった野望もなく、日々だらだらと生きている僕ではあるのだが、ある日神様に「キミの寿命は明日までね」などと言われたらとてもあわてそうな気がする。だからといってじゃあいつまで生きたいのか、もっといえば、いつまで生きたら本望なのかと考えてみても具体的な答えはなかなか出てこない。
ためしに、この手のことを考えるときに使われることのある「子供が一人前になるまで」というものさしを使って考えてみたのだが、その場合、5年後くらいには「本望キター」ということもあり得るのである。娘の年齢を考えたらそりゃそうだよね、というところなのだが、5年後というのはいささか近いような気がする。この先の人生に特に大きな予定はないのだが、5年後に「うむ満足じゃ」とは思えそうもない。
では、少し前の部分に書いてから「ごく短期間なら経験してみたいような気がする」と思い続けている「モテキ」がきたら「うむ満足じゃ」ということにするのはどうだろう、と一瞬考えてみたのだが、僕がそれを目標にしてしまったら、確実に満足できずに後悔を残したまま寿命を迎えることになるだろう。それこそ、ウサギに変身でもしない限りは。

最近、よく聴いている歌に「あなたがいるなら、この世は、まだ、ましだな」という歌詞があるのだが、結局のところはそういうことなのかもしれない。
僕が面白いと思える人がいて、面白いと思うモノがあって、それに影響されて(レベルはともかくとして)面白いことを自分で思いついて、たとえばこういうところにそれを書いたりしている間は、生きていたいと思うのかもしれない。
いまひとつ具体性のない話ではあるのだが、他にこれといって期限を設定する材料を思いつくことが、今のところはできないのだ。

ところで。
最後の最後にこんなことを書くのはどうかと思うのだが、最近調べたところによると、白いウサギの目が必ず赤いわけではないらしい。白ウサギは全員目が赤いものだと思い込んでいて、ここ数年親近感を抱いていたのだが、なんとなく裏切られた気持ちだ。