雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
東で25年ぶりに『ツイン・ピークス』の続編が制作されると聞けば
「約束を守ってくれたのはうれしいけど、ローラ・パーマーはどうなるの?」ともやもやし
西でテレビ・シリーズ終了後12年ぶりに『交響詩篇エウレカセブン』の劇場版が制作されると聞けば
「うれしいけど、劇場版三部作の完結が2019年というのは先過ぎじゃないか」と自らの余命を案じ
南で10年半ぶりにコーネリアスのニュー・アルバムが発売されると聞けば
「もう無理かもしれないけど、今度はポップな歌ものにしてください」とささやかに望み
北で4年ぶりにジム・ジャームッシュの新作が公開されると聞けば
「いつも通りの相変わらずでお願いします」とつぶやき
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼうと呼ばれ
ほめられもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
……25年ぶりとか12年ぶりとか、今年は「まさかの新作」、「まさかの続編」というような、待たせたな系の楽しみが固まって押し寄せてくるのだ。この事態に何を思うかといえば、
「ずいぶんと長生きしたものだ」
ということで、好きだったドラマの続編を25年待つなどということは、現役女子高生の我が娘には体験できないことだ。まあ、だからといって、
「どうだ、うらやましいだろう」
と自慢する気もないのだが。
それにしても。
今年は久々にいろいろあるようです、ということを、宮沢賢治の言葉にまぜて書いてみるというのは単なる思いつきだったのだが、この文章を書くにあたってまじまじと読み返したこれらの言葉たちの凄みは、相変わらず僕を考えこませるのであった。
この言葉たちをはじめて読んだのは、おそらく中学生くらいのときで、その時は、どうしてもこの、
みんなにでくのぼうと呼ばれ
ほめられもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
……が納得できなかった。
「ほめられもせず、苦にもされず」はわからなくもない。そりゃ、ほめられたほうがいいけど、まあ、わからなくもない。
しかし、「でくのぼう」と呼ばれることを希望するのはどうだろう。
それも、みんなにそう呼ばれるのだ。
「よう、でくのぼう」
と呼ばれ、
はい、なんですか。
……と、普通に返答できる強さが僕にあるだろうか。
「そういうものに、わたしはなりたい」
……という「そういうもの」とは、いついかなる時も、
僕のことは大丈夫だから、気にしないで。
……と言える人のことなのかもしれない。
当たらずとも遠からず、という気もするし、全然見当違いのことをいっているような気もする。
本当は、
中学生の頃、僕を悩ませた言葉の意味が、今はとてもよくわかる
……みたいなことが書ければ、文章としておさまりがいいのだろうけど、中学卒業以降100年くらいたった今でも、僕は「うむむむ」と頭をひねっている。
そういえば、昔読んだあるマンガに、
「オレは、平気な顔をするのが得意なんだ」
と言う猫が出てきたな、などと、関係があるんだかないんだかわからないことを考えたりしながら、結局は、わからんなあ、などとつぶやきながらその言葉たちを箱に戻し、棚に戻すことになる。
僕にとって、これは、面白いほうの「わからない」だ。またいつか、棚から箱を出して、頭をひねることもあるだろう。その時、未来の僕は、何を考えるのだろうか。
今思えば、あの時すでに、陰ではでくのぼう扱いされてたんだよな
……みたいな、衝撃的な展開になっていないことを祈る。
まあ、それはそれとして。
目下の問題点は、『ツイン・ピークス』は有料放送なのである。このためにWOWOWに加入するのもアレだし、そうするとやはり、おとなしくDVD化されるのを待つしかないのだろうか。そうすると、いつDVD化されるのか大変気になってくる。WOWOWでの放映終了後というようなことになると、今年中のDVD化は難しいかもしれない。
この悩み多き世界の中で、おそらく最小クラスの悩みである。いや、悩みなどといえるようなものですらないかもしれない。
宮沢賢治は、僕のこんな悩みを聞いたら、どんな顔をするだろう……みたいなことを書くと、いかにも文章のラストっぽくなるかもしれない。
次からはそういう感じで書くことにしようかな。